自分に自信を持つってかなり勇気のいること。
「私は自分に自信がない。」
そのせいで自分のまわりの人を
不快な気持ちにさせたことがある。
私的には周りに嫌な気持ちをさせないため。
って、発した、自分に自信の無い
「私なんて」
って言葉が逆に不快な気持ちにさせて
しまったことがある。
自分に自信がないのはある程度のところで
抑えて自分の心の中だけで思っておくようにしないと
いけないんだなあ。と思った。
でも実はここまでは簡単にできても
ここからが難しい。
さて、「ある程度」とは
いったいどの「程度」なんでしょうか?
目安を教えてほしい。
目安があるのならば。
例えて言うならばどこまでが「私お金無いんだよね」
と、言っていいのかがわかりやすいかもしれない。
「私お金無いんだよね」
月収いくらまでが?年収いくら?
今月服はどれだけ買った?食費は?
旅行に行った?財布の中にはいってる残金は?
貯金は?仕送りはあり?無し?
さあ、どういう条件が「お金無いんだよね」
と言っていい人なんだろう。
人それぞれ感覚なんて違うものだからこれは
決められない気がする。
目安なんて誰にも定められないきがする。
これを人と共有するのは難しいこと。
けれども人と生活していくにはこの
「ある程度」つまり、「決められない目安」を頭の中に、
身体に染み込ませた上で生活していかなきゃならない。
この「決められない目安」を
自然と身体に染み込ませた人間は
誰からも愛され、気を配ることができ、
自分の愛する人間からも愛されるのでは。と。
山本耕史さんは決められない目安を
身体に染み込ませて、色んな目安を知っていて
誰に対してもきっとその目安を下げたり上げたり
自由自在に操れる
決められない目安マスター
なのでは。と。思いました。
はい。ちょっとマスターとか使って
かっこよくしめようとしたので、自分で
打っていて恥ずかしくなりました。
この恥ずかしくなるのも自分に自信がない
に、繋がってゆくのです。
時に自分に酔いしれることが大事。
ああ、なんて可愛い私なんだろう。
なんてね。ふふふ。(笑)
まわりの人が不快になったのは「自分に自信がない」ことそのものというより、それで卑屈な態度をとっちゃったからかもしれませんよ。ただ、卑屈と謙虚の境目がどこらへんかの「目安」は「ある程度」同様に難しいことでして。