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金平茂紀
1977年 TBS入社。
社会部、「ニュースコープ」副編集長、モスクワ支局長、ワシントン支局長、ニュース23編集長を務め、2005年から報道局長、2008年からはアメリカ総局長として、アメリカを中心に取材を続ける。
2004年度「ボーン・上田記念国際記者賞」を受賞。

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#196 年があらたまり、何だか空気が変わった。

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年末年始の中東取材の最終日に風邪を引いてしまい、去年の最終日のオンエア内容をUPできないままに、時間が過ぎ去って年を越してしまいました。何だか大昔のオンエアのような気になるのは、フランスで起きたテロ事件によって、時代の空気に大きな変化がみられるからでしょうか。高倉健さんと菅原文太さんの残したものを考えるというのが特集1の内容でした。高倉健さんについては、僕は一ファンで、『幸福の黄色いハンカチ』『居酒屋・兆治』『単騎、千里を走る』とか好きでしたね。あと、RKB毎日の巨匠・故・木村栄文さんが健さんをテレビドキュメンタリーに起用した『むかし男ありけり』(1984年)が大好きでしたね。木村作品は、国民の共有財産なので、何とかなるべく多くの機会に視聴者がみられるようにして欲しいものです。素材倉庫のなかに眠らせておいては、栄文さんに対して失礼ですよ。菅原文太さんは、脱原発や特定秘密保護法をめぐる運動のなかで、よくお見かけしました。そして、最後は沖縄です。ニュースキャスターたちが特定秘密保護法反対の声明を出した時も、駆けつけてくださいましたね。特集2は、北朝鮮による拉致事件を扱ったものでした。この日のオンエアが終了してから、「報道特集」においても「忘年会」という実に日本的な行事がとり行われました。実は、「報特バンド」という秘密結社的なバンドがありまして、この日をめざして、日頃の忙しい時間の合間に練習を重ねた成果がその夜に披露されました。セカイノオワリよりも、オワリノセカイ的で、すっごいよかったですよ。かなり盛り上がってました。その時の模様を撮ったので掲げておきましょうね。
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OP 金平挨拶
金平)
こんばんは。「報道特集」です。
今年最後の放送になりました。
今日の特集では高倉健さんと菅原文太さんの残したものを考えて
今年を送りたいと思います
ぜひともご覧ください。

特集1「高倉健と菅原文太 未来への伝言」 
<リード>
金平)
特集です。
人が亡くなった後もその人が残していった、言葉やもの、
生き方の流儀から私たちが何かを引き継いで、後の世代に伝えていく。
それが本当の意味の歴史の営みかもしれません。
先月、相次いでなくなった高倉健さんと菅原文太さんに
「報道特集」はこだわりました。
ご覧ください。

〈スタジオ受け〉
小林) 
「ちょうど今年の夏に、高倉健さん主演作「ポッポや」のロケ地にいったんですけれども、
公開から10年以上たって今も多くのひとが訪れていて、
きれいな花も植えられているんですよね。
地元の方の健さんへの想いというのがつたわってきたんですが、
VTRを見て思いましたが 文太さんも、健さんも、
多くの人を魅了してやまない真のスターだったなと改めて思います。

日下部)
私は高倉健さんの取材をしていて、一つとても驚いたことがあって、
というのはですね、
最期の映画を撮り終えた後、まぁ2012年ですけども、インタビューに答えているのですね。
その中で、生まれ変われたら何になりたいかという質問に対して
「こんなに政治が乱れているので政治家になりたい。 俳優より政治家になりたい。 
負けず嫌いだから一生懸命やるよ!」って答えてるんですね。
考えて見ますと、高倉健さんと菅原文太さんという映画界の二大巨頭が、
本当に晩年を迎えるに当たって、
今の日本に対して、何かおかしいぞと感じていたっていうのは
非常に何かいろんなことを考えさせられました。

金平)
ぼくは菅原文太さんの沖縄との関係っていうのを取材したんですけどね、
沖縄へいった後にすぐ入院して、亡くなられたわけですよね。
覚悟の上で沖縄に赴いたってことなんですね。
で、あの、VTRの中に出てきた
その、最後に沖縄そばを食べたいっていうのがあったでしょ?
応援演説の後に、すごい立派な沖縄料理のお店に招待されて、
出された料理に、こんなにぼく食べられないよっていった上でですね、
沖縄そば食べたいんだ、一つ贅沢を言わせてくれっていって
一個だけ、一杯も食べられないから、4つに割って、
みんなで一杯のそばをたべようやってことを言ったって
話を聞きましたですけどね。
それにしてもその、高倉健さんもね、菅原文太さんも、
終戦当時14歳、11歳でしょ。
戦争を知っている人の言葉っていうのが本当に重くてね、
ちゃんと内容が、中身があって、なおかつ
間(ま)の美学を知ってるっていうかね。
すごく言葉が美しいなって、僕は思いましたですけどね。

特集2「拉致取材一年分の総決算」

〈リード〉
日下部)
さて次の特集は日本と北朝鮮の関係です。
5月の日朝合意以降、拉致問題の進展に期待が高まりました。
しかし、交渉は具体的な成果も無く年をこすことになります。
JNN各局は今年、拉致被害者や特定失踪者に関する取材を幅広く行いました。
そこからは様々な事実が明らかになっています。

〈スタジオ受け〉
小林)
拉致問題を継続して取材しています吉田ディレクターです。
今年五月の日朝協議以降、なんらかの進展があるんじゃないかと、
期待が高する声も上がっていましたが、大きな展開がないまま年をこそうとしているわけですよね。
ご家族のみなさんは、どういった想いなんでしょうか。

吉田)
はい。家族の多くがですね、今回の交渉を
「最初で最後のチャンス」という風に言っています。
家族も高齢化する中、期待を込めて、息をひそめてずっと待っているんですが、
北朝鮮の回答はないままです。
時間が経つにつれ、溜め込んだ怒りは大きくなってきています。
中途半端な結果を出せば、北朝鮮は勿論、日本政府にも、
その怒りが跳ね返って向きかねないわけで、
これ非常にセンシティブな問題になっているといえます。

日下部)
長い年月をへてね、明らかになる事実っていうのはまだまだあると思ったんですけれども。
最期の広島のケースの場合は、歴史的な背景とかいろいろ考えると
一般的な拉致とは分けて考えた方がいいとも思うんですけども、
いずれも、個人の意思で自由に日本に戻ってくることが出来ない、
帰ってくることが出来ない、そういう人たちがいる、
その事が最大の問題だと思うんですけども。

吉田)
はい、その通りだと思います。
実は、特定失踪者の中には、朝鮮半島からの引き揚げ者も複数いて、
その関連性も論じられてはいるんですが、
平本さん兄弟のように朝鮮半島に渡った可能性を示す証言を聞いたのは
これは初めてでした。
長い歴史の中では、帰還事業があったり、それで渡った人がいたり、
自分の意思で北朝鮮に行った人、
様々なケースがあります。
調査会の荒木代表の言うようにですね、自分の意思で戻れない人をどう取り戻すのか、
戻れるようにするのか、そこが基本だと思います。

金平)
吉田さんね、それにしても来年という年が戦後70年の節目の年になるわけですね。
そうすると東アジア全体の枠組みでいうと、なんとか戦後の懸案をね、
清算しよう、あるいは解決しようという気運が高まると思いますね。
そういう中で、日朝関係っていうのも、
拉致だけではなくて、その大局的な見地っていうんですかね、
それと何よりも、人道的な見地から、
きちんと外交を働かせて、それに加えて、
民間の力を利用してですね、
何らかの進展がある、ということを期待したいですね。
どうもご苦労さまでした。

<エンディング>

小林:「報道特集」は今日が今年最後の放送ということですが、お二人は一年の取材振り返っていかがでしたか。
日下部:非常に印象的な取材が多かったんだけど、外国で行って良かったなと思ったところは独立の住民投票やったスコットランド。私、酒飲みだからウィスキーの聖地アイラ島に行ったときに本当によかったな。それ以来シングルモルトの虜になってますけどね。
金平:僕はウクライナ。それと沖縄かな。ウクライナは墜落事故があったんですけど、現場のひまわりの畑がすごい綺麗で、何だか映画『ひまわり』のことを思い出しました。
「報道特集」来年は1月10日がスタートです。皆さん良いお年をお迎えください。
「報道特集」、ではまた来年。



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  • 河内原人さん
  • 2015/08/09 20:24
「お前はただの現在にすぎない」、図書館で見つかりましたので、これから読みます。
70年戦後、と日本では捉えていますが、被害を受けたアジアの多くの国の人々にとっては、未だ終わりのない戦時下と、日本政府・企業体の「開発協力」という名の収奪にさらされています。
たとえばマレーシア・ブキメラの三菱マテリアル・レアメタル採掘による放射性物質災害が、裁判提訴・操業中止では終わらず、放射性廃棄物の処分場にされ、あらたの被害がもたらされています。忘れてならないのは、中国への日本軍遺棄毒ガス弾による二次災害が、戦後70年もの間多くの被害をもたらしてきていることです。ぜひ、取材をお願いいたします。写真家・樋口健二さんにも取材をお願いいたします。
  • siriusuさん
  • 2015/03/24 10:44
ある日、書類を燃やしているのを見た。翌日には日本軍はあざやかに跡形もなく消えていた。異変を察したお店は、急ぎ逃げたが、本当に間一髪で日本に帰ることができたが、それは過酷なもので、16歳で小柄だったので、顔に墨を塗り、体に宝石類を巻き付け、耳元を銃弾がかすめたりした。でも、一般の人は逃げ遅れただろう

それから、ある朝、ばあやと日傘をさして海辺を散歩していた時、10数人の少女たちが男たちに連れられて、歩いて行った。少女たちは細く小さく小学6年生くらいに見えて、「アイゴー、アイゴー」と泣き叫んでいた。慰安所に連れて行かれるのだろうと推測した。男たちが日本人かどうかはわからない。

証拠の文書はなくても、事実は伝えられている。消せやしない
  • siriusuさん
  • 2015/03/24 10:43
彼女が私に伝えたことを、私も伝えておきたいと思います。このご時世にためらいますが。

国後一の豪商の娘だったという知人の話
彼女は色白でとてもきれいな人だったが、誇り高く損得で物を言う人でなく、妥協せず、「憶測で物は言わない」と、言っていた。

豪商だったお店の別棟に、日本軍は本部を置いた
絶対に誰も近づけないようにした
しかし、ある夜、新米の丁稚さんが夜おしっこに起きて、間違って。迷い込んだ。殺された。

日本軍はそれはそれはあざやかに撤退し、痕跡を消し去った。証拠となるものは燃やし尽くした。命が大事、という感覚が欠落していたから、少しでもスパイの疑いがかけられたら殺した。燃やし尽くし殺し尽くした