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日下部正樹
1985年 TBS入社。
政治部、香港支局長、北京支局長、外信部デスクなどを務め、2010年9月までは、ソウル支局長。

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革命未だ成らず

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久しぶりに横浜中華街に出かけました。

今年は中国・辛亥革命から100年。
1911年10月10日に起きた
武昌蜂起に端を発する辛亥革命により
清朝は瓦解し中華民国が誕生します。
袁世凱にあっという間に乗っ取られたとは言え、
秦の始皇帝から2000年以上にわたる
王朝支配に終止符を打ち、
アジア初の共和国を産み出したのですから
辛亥革命の歴史的意義は非常に大きいのです。
革命の主役・孫文が亡命者として
度々潜伏し蜂起の機会を窺っていた
横浜中華街で10月10日を迎えるのも
悪くないなと思ったのです。
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中華街は様々な祝賀行事が行われ人であふれていました。
ニューヨークやロンドンなど
世界に点在する中華街の基礎を築いたのは
広東を中心とする中国南部出身者です。
横浜中華街も例外ではありません。
孫文が世界を駆け巡り、
金銭や身辺警護など
様々な支援を得られたのは
彼が広東人だったからと言っていいでしょう。
特に中国から近く華僑の多い横浜は
絶好の潜伏先でした。
実際、孫文は6年近い亡命生活を横浜で送っています。
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今でこそ中華街には標準語(北京語)が
飛び交っていますが、
先に触れたように
もともとは広東語の世界です。
今のようにテレビもネットもない時代には
地方の人にとって標準語は馴染みが薄く、
出身地が違うと中国人同士でも
意思疎通を図るのは意外に困難だったようです。
一方で明治の日本人たちは
かなり漢文に精通していましたから、
筆談なら孫文も広東以外の中国人と
同じ位に意思の疎通が図れたはずです。
そこで孫文は革命への支援を求め
積極的に日本人と接触します。
最大の理解者である宮崎滔天と
出会ったのも横浜と言われます。
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それにしても辛亥革命は
日中共同作業ではないかと思われるほど
日本人が深く関わっています。
辛亥革命の中国側の重要人物というと
孫文・袁世凱・宋教仁・・・
日本側は
宮崎滔天・犬養毅・北一輝など・・・。

強烈です。濃いですね。
ちょっと近づくのが
躊躇われるような人物ばかりです。
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中国と台湾の政治的な思惑の中で
聖人に祀り上げられてしまった
感のある孫文ですが、
冷戦後の歴史見直しの流れの中で
革命家「孫文」だけでなく
人間「孫文」にも光があてられるようになりました。

たとえば女性関係とか。
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孫文が、中国の副主席まで務めた宋慶齢と
日本で結婚したことはよく知られていますが、
横浜で10代の日本人女性二人とつきあって、
そのうちのひとりとは結婚までしているのですね。
時に孫文38歳、女性は16歳だったと言われています。
さらに孫文は若いころ広東の黒社会の重要メンバーでした。
革命実現に向け孫文は資金集めや武器の調達など
裏のネットワークをフルに活用しました。

時代が全く違うと言ってしまえばそれまでですが、
孫文が今の日本にいたら
暴力団排除条例やら青少年保護育成条例違反で
ほぼ一発でアウトになるような話ですよね。
孫文はなんと釈明するのかなあ。

ごった返す中華街をひとり彷徨いながら、
そんなたわいない考えが、
なかなか頭から離れませんでした。
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