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日下部正樹
1985年 TBS入社。
政治部、香港支局長、北京支局長、外信部デスクなどを務め、2010年9月までは、ソウル支局長。

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古地図を手に

首都と呼ばれる街には大概
大使館街というものが存在します。

私が暮らしたことのある街で言えば、
ソウルは南山周辺、北京は三里屯とか建国門外。
特に北京は大使館だけが集中する地区があって
低層で緑の多い大使館街は周辺とは
明らかに異質な空間でした。
quBlGhoycZ.jpg
中国当局にとって
外国人を一箇所に閉じ込めておいたほうが
警備するのも監視するのも楽だったのでしょう。
少なくとも10年位前までは
外交官と外国人記者は大使館街の
決められた一画に住む事が義務付けられていました。
その一画はやけに防犯カメラが多く
電話の局番も統一されていました。

東京の大使館街というと麻布とか広尾でしょうか。
各国の窓口であり、
日本の管轄権がおよばない大使館は
私たちとは全く違った角度から
日本を見てきた歴史の証人でもあります。
戦前の地図を手にかつての大使館街を歩くと
当時の世界と日本との位置関係が
垣間見えるような気がします。
jpJQDE6ueH.jpg
戦前、ドイツ大使館は国会議事堂と
道をひとつ隔てたところにありました。
現在、国立国会図書館があるところです。
国会図書館の横にある坂道を
「梨の木坂」といいますが、
坂に立つ標識によればこの坂は
「陸軍省の通用門と
独逸大使館の間にあった」とあります。
つまりドイツ大使館は
国会議事堂と陸軍省に接する
極めて重要かつ敏感な場所にあったのですね。
1Be9mdVQTO.jpg
このドイツ大使館に頻繁に出入りしていたのが
独紙「フランクフルター・ツァイトゥング」の東京特派員で
ナチス党員のリヒャルト・ゾルゲです。
ご存知のとおりナチス党員と言うのは名ばかりで
ゾルゲの本当の姿はソビエト軍のスパイでした。
当時のドイツ大使の厚い信頼を得て、
大使館の出入りはもとより
公文書の閲覧も自由だったと言います。
なんだか永田町を闊歩するゾルゲの姿が
スパイ天国ニッポンという言葉とともに目に浮かんできます。
陸軍省の門番兵を何度もゾルゲの姿を見かけたことでしょう。
ひょっとしたら「グーテンモルゲン!」とか
挨拶を交わしていたかもしれません。
なんといっても陸軍はドイツ好きでしたから。
永田町のドイツ大使館は枢軸国の盟友として
戦時中も活動を続けていましたが
終戦間際、米軍による空襲により全焼し、
戦後は広尾に移転しています。
R1Xj14vzmz.jpg
アメリカ大使館は1890年以降、
関東大震災後の一時を除いて東京赤坂にあります。
震災で被害を受け、
帝国ホテル内に仮の大使館を設けたのです。
1930年再建され、
70年代まで使われた白亜の大使館は
「赤坂のホワイトハウス」とも呼ばれていたそうです。
r8GHVASQrq.jpg
戦中戦後と10年にわたって
日本にはアメリカ大使館が存在しませんでした。
開戦とともに大使館は閉鎖され、
戦後、占領下にあった日本は外交権を持たなかったため
大使館の再開はサンフランシスコ講和条約で主権を回復した
1952年まで待たねばなりませんでした。
戦争中にアメリカ大使館を管理していたのは
中立国のスイス大使館だったそうです。
3dTfS0tImj.jpg
それで52年に再開したアメリカ大使館ですが、
手狭になったと言う理由で別館を開設します。
この別館というのが虎ノ門にあった
南満洲鉄道の日本支社だったビルです。
満鉄のビルをアメリカが買い上げると言うのは
偶然なのか何か思惑があったのか、
いろいろ考えてしまいますよね。
この別館はその後三井グループに売却され
今は商船三井のビルが建っています。
IU0Fcgwq76.jpg
東京に数ある大使館の中で
最も歴史を感じさせるのがイギリス大使館です。
s8ZljFT00K.jpg
1945年、イギリスも日本の宣戦布告を受け
イギリス人スタッフをすべて引き上げ
大使館の管理は日本人スタッフに委ねられました。
焼夷弾が大使館の庭に落ちた時は、
日本人スタッフが必死に消火にあたり
建物は最小限の被害で済んだそうです。
鬼畜米英の時代に敵国の大使館を守った
日本人の思いとは如何様だったのでしょうか・・・
O8G1QIe7jd.jpg
終戦後、大使館の建物はイギリス海軍の
管轄下におかれ、軍艦として扱われていました。
艦名は「リターン号」。
わかり易いというか、そのままですね。
今もユニオンジャックが掲揚されている
旗ざおの形状が、
どことなく艦船のものに似ているのは
そのせいなのでしょうか。
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イギリス大使館の名前に戻るのは
これも主権回復後の1952年です。
eke1xh8d7v.jpg
ところで、私が大使館巡りの時に使ったのは
大東京35区分詳図(昭和16年)
つまり開戦直前に出された地図なのですが、
軍の統制により軍事施設がほとんど記されていません。
東京中心部で言うと皇居はもちろん
近衛師団のあった北の丸公園も
陸軍省も海軍省も白抜き状態。
TBSがある場所もかつて
近衛歩兵第三連隊の兵営地だったのですが、
赤坂区一ツ木町の表記があるだけです。
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そもそも戦前の国内地図のデータは
参謀本部内の陸地測量部が調査したものです。
ですから地図を出版するにあたっては
厳しい検閲がありました。
戦後この陸地測量部を引き継いだのが
国土地理院という虫も殺さないような組織です。
ABlfgQgnH3.jpg
日本の標高の基準となる水準原点が
国会前の公園内にありますが、
ここは参謀本部陸地測量部のあった場所です。
かように地図と軍隊とは密接な関係にあるのです。
いま話題の国防軍なるものが創設されたら
白抜きだらけの地図になるのかなあ・・・。
まさかね。
次回も大使館話を続けようと思います。
お付き合いください。



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