「まともなメディア論」のための”綾取り”または”乱取り”―前川英樹

 これは「あやプロ」の始球式だ。で、私の出番だという。どうして?というと、「だって前川さんはメディア総研の先輩なんだから」という。そういうのはアリかなぁ、と思うが、マいいか。この際、僭越ながらTBSメディア総合研究所”せんぱい”と名乗ってしまおう。

 このホームページの「メディアノート」に6年間続けてきた”Maekawa Memo”を、今年の6月に一区切りつけたのだった(バックナンバーはココをクリック)が、今回メディアに関する情報更新ページ「あやプロ」が立ち上がることになって、やっぱりホッとしている。情報を更新しないホームページなんて意味がないと言われながら、これまでは結局一人でかかえこむという例の?悪癖が出て、拡張性という点では壁があったのだ。今回の再開ホームページはその点で業界の区別や、世代間の格差などを超えた<あや取り>を展開することを意図しているのだから、それだけでも既に新たな意味が込められている。ついでに、国境や言語も超えてしまえば良い。「誤解も理解のうち」というところにコミュニケーションの本質があるとすれば、そもそも正しく理解されるなどということは、同業種・同世代であってもあり得ないことなのだ。まず、越境せよ!
 さて、メディア総研での私の最後の仕事が、(社)日本新聞協会のから依頼のあった原稿だった(NSKリポートNo5.に「『テレビの存在理由』問い直す時」ココをクリック)。テレビ業界を離れる時の最後に映った風景はこういうものだった。それを前提に、今回の<あやブロ>のあや取りが、出だしで糸がこんがらがらないように気をつけつつ、論点を出してみよう。先回りして言っておけば、「誤解も理解のうち」という意味で、「アッ、そういうことじゃないんだよね」ということがあるだろうが、それがコミュニケーションの始まりなのである。


(1)コンテンツはメディアを選ぶ
 
「コンテンツはメディアを選ばない」とは、しばしばネットの立場からアンチテレビの観点として提起されてきた問題だ。どのメディアに配信されてもコンテンツの価値は変わらないし、そこには熱いユーザーがいる、というわけだ。私自身、いくつかの情報産業とかネットビジネスとか、あるいはネットvsテレビといったテーマのシンポジゥムの場などで、アゲインストの風に曝されながらそうした発言を耳にしてきた。それは主として「テレビ局がテレビ番組をネットに出さないことが、この国のネット産業の成長を阻んでいる」という文脈で語られていた。確かに、テレビ局のネット対応余りにも自己中心的であったと、私も思う(今でもそういう傾向はあると思うし、それはまた改めて触れることになるだろう)。
 
 しかし「コンテンツはメディアを選ばない」という発想や認識の一番の問題は、それが制作者の創造性に反することにある。何故ならば、第一にどのような「場」で人に見られる(読まれる、聴かれる、など)かを想定しない創作活動はないからだ(その意味では、ここでメディアという場合、それは端末/ディスプレイを含んでいると考えた方が良いだろう)。どういう人が、どういう形で接触してくれるかわからないけど、先ずは良いモノを創ろうなんてことはあり得ない(実は、ここから制作者・制作会社と局の制作費の関係という大切な論点に繋がる展開があるのだが、それはまた別途)。第二に、表現も市場の内にあるとすれば、最初にどのメディアに露出するとより多くの利益を得られるか、ということを考えないと経済活動としての制作は成立しない。だから、「コンテンツはメディアを選ぶ」のである。但し、以下の2点をノートしておきたい(いうまでもなく、これも重要な論点だ)。
 (ⅰ)ここでいうコンテンツとは、いうまでもなく「複製時代」のそれである。
 (
ⅱ)「想像力=創造力」そのものは市場の外にある。
 だが、それは同時に「メディアがコンテンツを選ぶ」ことと<対>である。むしろ、経済行為としてはこちらの力学の方が強いのかもしれない。それは一般的に生産より流通の方が優位にあるのと同じことであろう。ネットが成長したからこそWeb CMが生まれるのであって、その逆ではない。そうであるとすれば、そのメディアがどのような情報環境で誕生し、どのような構造(それ自身の内部と、外部=他者と如何に関わっているか)で成立しているかを知ることが、コンテンツ論の前提になるはずだ。テレビとネットのコラボを考えるためには、「まともなメディア論」がないと不毛と徒労の繰り返しになる。カウンターも含めてテレビが一番サボってきたのはここである。
 誤解も理解の内といったが、誤解の幅は小さいほうがいいに決まっている。この「あやブロ」が「まともなメディア論」のための<乱取り>の場になることを願っている。
 と、ここまで書いて気がついた。これって、商売とか職業の話であって、フツーのユーザーにとってはどうでいい話なのかもしれないということだ。「まともなメディア論」はそこまでカバーしないといけないのだろう。それは結構大変だと思うのだが、「まとも」というのはそういうことなのだろう。

(2)コンテンツ産業に国家戦略は必要か
 ところで、「日本のアニメやマンガは世界的レベルのコンテンツである」という説も随分前から言われてきた。それがどれほどのものかを語る立場にいないし、力量もない。ただ思うに「多分そうだろうなァ」ということだ。では、何故そう思うのか。
 これも良く知られているように、アニメの前には漫画・劇画の世界が先行していて、巨人手塚治虫の功績はもちろん、それと並行して貸本文化の役割、「ガロ」の先駆性、「マガジン」・「サンデー」・「ジャンプ」の競争、「Big Comic」の登場、少女マンガの成熟、などなど、戦後文化の根底的なものの一部は間違いなくこのジャンルにある。特に、高度経済成長からバブルに至る環境は、世界で最もポストモダンを実現した国とも言われたように、モノより記号の消費が世界最先端のレベルに達していたのだろう(そこには、国防問題を核にした国家論の不在という”特殊事情”もあったはずだ)。つまり、日本のマンガとアニメは筋金入りなのである・・・というのが、「多分そうであろう」ということについての雑駁な推論なのである。誰かにこれを説得的に語って欲しい。例えば、「天皇とアメリカ」(吉見俊哉/テッサ・モーリス・スズキ)という論点があるのだから、「安保体制とマンガ・アニメ」という論点があっても良いはずだ。
 ところで、この日本の強みを生かした文化政策・国際戦略がない、それが問題だという議論もある。例えば、韓国の文化政策やクール・ブリタニカとの比較は分かりやすい例とされている。なるほど、自国の強みを国際的に展開することは当然ではないか、そのためには国家レベルの戦略が必要であり、ハブ空港で後れをとったようなことがあってはならない、というわけだ。ここから、三つのアプローチが成立する。

(ⅰ)この「筋金入り」に至る過程で国は何をしてきたかといえば、何もしてこなかった。「ときわ荘」の漫画家たちに文部省が何かをしたなんて聞いたことがない。「漫画は不良の温床」というPTA的発想と同伴して来たのではないか。つまり、日本の漫画・劇画はサブカルチャーというよりカウンターカルチャーとして成長してきた。もちろん、それが脚光を浴びて日本の代表選手になることは悪い事ではない。だが、突然国家戦略といわれてもねェ、と「ときわ荘」の後輩たちが思っても不思議はない。イギリスや韓国がどうであるかはいざ知らず、この国の官僚や政治家がマンガやアニメについて感覚的に分かっているとはとても思えない。つまり、この場合国家戦略は「余計なお世話」ということになる。

(ⅱ)こういう場合、「金は出すけど口は出さない」というのが典型的なやり方だ。それはそうかもしれない。そうだとすると、何に金を出かは何処で決めるのか。それが戦略だとすると、クリエーター達に戦略を委ねることになるのだが、これまたそれが得意だとは思えない。いや、彼らの中からそうした人材が出てくることは望ましいし、そこで<民>による自主的な国家戦略の代行が成立すればなかなか良いと思うのだが、果たしてどうか。ところで、その時テレビ局のポジションは?

(ⅲ)あるいは、市場主義の観点でいえば、これも詳しいことを知らずにいうのだが、アメリカの強みがハリウッドにあるとして、戦略的ハリウッド政策というのが存在したのだろうか。輸出政策として何らかの政府の役割はあるだろうが、ハリウッドに対して独禁法的措置とは別の政策があったかというと、どうもなさそうな気がする。そうだとすれば、(いかに「筋金入り」とはいえ)アメリカにおけるハリウッドのように日本のアニメやマンガに市場主義による(つまり、国策の外の)展開に任せれば良いと、言いきれるのだろうか。いや、わけの分からない国策よりは、その方が良いのかもしれない。
 ここから先は「説得的」に語ってくれる人たちの出番で、つまり「国家戦略としてのアニメ・マンガ政策はありうるか」、「ありうるとすればどのようなものか」についての意見を聞きたいのである。

 「あやブロ」の始球式としては少しだらだらと書きすぎたかもしれない。暫く休養していたので、本番前のリハーサルが必要だった。リハーサルはページの外でやれって?ゴメン。早くも糸が絡まってるみたいだ。乞う、ご容赦。

TBSメディア総合研究所”せんぱい” 前川英樹



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