「インターネット時代の<帰属すること>と<知ること>」/続・ウィキリークス問題私見 ― 前川英樹

 こういう文章に会うとやっぱりドキッとする。「たとえば、今、自分の帰属する先は、国家や会社であるのと同等かそれ以上に、『サーバー』である、と感じています」(「あやブロ」12/15.須田記事)。
 そしてまた、こういう文章に会うとウーンと思う。「知る権利より知りたい欲を満たしてほしいというアングルで書きました」(「あやブロ」志村記事送付メール)。
ウィキリークス問題についての二人の記事は、この「あやブロ」でお読み頂いていることであろう。二人のコメントからキーワードを引っ張り出せば、一つは<帰属>であり、もう一つは<知る>である。

 まず「帰属」である。「帰属」、つまり自分がどの団体、組織あるいは共同体に属するかということは、法や制度あるいは契約の問題というより、かなりの程度意識・感覚における共有性の問題であるように思える。だから、サーバーによって成立している空間=関係性への所属感覚が、現代人の自己証明のあり様だと言われれば、「なるほどね」という気にもなる。その関係性においてはタグが身分証明なのだろうか。「自分の好きな概念に、『ヒトは、国籍・民族から→文化籍・興味族へ、移行しつつある』というものがあります」と書く須田さんは、多分そう思っているのだろう。でもね、その「国籍・民族から→文化籍・興味族へ」ヒトが移行する時に、『国家って、なに?』という問いに対して、現行の国家がキチンと答えられていない」と須田さんはいうけれど、自らを危うくする問題に国家が答えるはずがない。
 さて、それでは、例えば<近代国家>は高々300年程度のものにも関わらず、何故国家が人間の行為としての生活や仕事、この場合でいえばネット/サイバー空間を支配する(=出来る)のか、という問いはそのまま残る(仮に、国家がなくなっても権力は残るであろうから、国家を権力と言い換えても良いだろう)。
 あまりにも60代年的言い方なので流石にいささか自分でたじろぐのだが、「政治の幅より生活の幅の方が広いのに、何故政治が生活を支配するかと言えば、そこに権力があるからだ」といういい方がある。では、現在において生活をネット社会と置き換えることは可能か。つまり、置き換え可能だとすれば政治=権力行為と生活との関係はネットによっても変わらぬものとして継続されているだろうし、置き換えられないとすれば、人間はネットによって政治(=権力行為)に支配されない領域を持ってしまったということになる。実は、これがこのウィキリークスが(というよりは、インターネットが)提起した問題の基底にあるのではないか、とぼんやりと思っている。これは結構根が深い問題に違いない。

 次に、「知る」ということだ。
 朝日新聞(12/23)の「論壇」・「情報流出 公開の境界だれが決める」を読んだ。東浩紀さんがいくつかの論文について批評していて、その中で『「知らせるべきではない世界がある」のはいいとして、ではその範囲をだれが決めるのか。国家か市民か。そして根拠は何か』と書いている。上の論法でいえば、政治と生活の関係は本質的には変わっていない(「知らせるべきでない世界」の肯定)が、しかし「非公開の根拠」についての新たな「原理原則」が必要であり、それはだれがどうやって決めるのかということが問題だ、ということになる。
 志村さんは「インターネットは、政府を含め誰もが自由に意見を表明できる場だ。そして、より多く情報を知ったほうが、よりよい意見形成ができる。新史料が見つかると、歴史認識が変わるのと同じだ」(「あやブロ」12/20.)と書く。つまり、「知らせるべきではない世界」はそもそも存在してはならないということだろう。ネットへのこのオプティミズムは少し過剰に健康的ではないだろうか・・・と思いつつ、ここまで断言的に評価できることに感心もしている。
 むしろ、志村さんの提起した問題意識に沿っていえば、第一に、知りたい欲望が排除されたときに知る権利は蘇生する、つまり、やはりそれは情報技術の問題であると同時に情報規制=政治の問題と考えるしかないのではないか。そして第二に、「(自然科学と同様に)社会科学も、知り得る情報が増えるほうが、よりよい論考を生み出せる。インターネットやウィキリークスは、そのためのいいツールだ」という結語は、「人は知ることの重みにどれほど耐えられるか」という問いとセットではあるまいか。

                         □

 近代国家の問題に戻って考えれば、「21世紀は17世紀に回帰する」というような気がしている。つまり、新たな形での「万人の万人に対する闘争」状態が再来しつつあるのかもしれない。その意味で、東さんのいう意味とは別に、政治と人間(=生活=ネット空間)の関係を21世紀的な契約の<形>として形成出来るかどうか。そのためには、インターネットの「可能性」が内包する<意味>、そしてその多様性を考えることが21世紀的テーマであろう。
 その延長として、若しも政治と人間の関係(国家あるいは権力と人間の契約関係)の見直しを<革命>というならば、「インターネットの登場は革命的」だと喧伝された、その本当の<革命性>はそこにあるように思われる。前回「相当にややこしい未知との遭遇」と言ったが、それはこういうことでもあるようだ。そこには、インターネットの自由とアナーキズムやニヒリズムといったテーマも取りこまれていくだろう。まことに私の手に余るが、面白そうだから誰かが語って欲しい…と思っている。


TBSメディア総合研究所“せんぱい” 前川英樹



前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは”蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいからNHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。



この記事へのコメント
印は入力必須項目です。
名前
コメント
画像認証 :

表示されている数字を半角で入力してください。