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「テレビジョン・時間・<リアル>・R.バルト.などなど」 ― 前川英樹

「60年代のリアル」について書き散らかし、「あやブロ飲み会」でアレコレ語り散らかしたことなどを、この一週間時々思い起こしつつ考えた。未整理のまま提出するのは如何なものかという気もするが、「ブログとはそういうものです」という声が聞こえる。ま、いいか。以下、久々の前川メモです。

(1)
1/24の「あやプロ」の「ネットへの規制と時代によって変わるメディアの必然」で、志村さんはテレビに刻印された「時間性という特性」は、今やネットで代替されつつあるのであって、メディアとは代替されることで次のステージに入るものなのだ、という趣旨のことを書いている。この指摘にどう答えるか、アレコレ(といって、そんなに一生懸命でなく)考えた一週間だった。

(2)
分かりやすい論点は、効率という視点からいえば、後から登場する者は必ず先行する者に代替するが、表現という視点からは代替されざる所にそのメディアの存在理由がある、ということだろう。

(3)
しかし、この論点は市場と市場外という図式に議論を落とし込むことになるだろう。市場論が果たしてメディア論の基本軸かどうか、それ自体が論点されなければならない。つまり、メディアの伝搬効率(速さだけでなく、浸透度、個別性など)からいえば、テレビはネットにその場所を譲るべきであり、テレビの役回りはコンテンツの制作・供給だというのが市場論的テレビ論ということになる。ここのところは難しい。志村的明快さはまさに明快であるが故に、そう簡単にYesと言えないところが面白いのだ。

(4)
議論のための議論にならないように気をつけつついうのだが、60年代にテレビが自らに問うた時のキーワード、つまり「テレビの時間性」とは何か、そこに話は戻るのだ。「『時間』をすべて自ら政治的に再編した後で、それを歴史として呈示する権利を有するのが『権力』とするならば、そのものの『現在』が、as it is (あるがまま)に呈示しようとするテレビの存在は、権力にとって許し難いだろう。『テレビお前はただの<現在>に過ぎない。お前は安定性を欠き、公平を欠き、真実を欠く・・・テレビが堕落するのは、安定、公平などを自ら求めるときだ』」とは、「お前はただの現在に過ぎない」の終章近くで語られるフレーズだ。権力によって再編されない時間の創出こそテレビの可能性だという思想が、他の表現領域ではなく、テレビにおいて突き出された瞬間である。

(5)
時間の制度化の一つの形が免許であり、それを前提にしたテレビ(=局)で制作することの意味は何か、制度化された時間からの解放は可能か、それこそテレビが自ら立ち向かうべきテーマではないか、ということがそこで問われたのだった。であるが故に、テレビの時間性とは<同時性=ライブ性>を一義的としつつ、しかしそれだけではない<テレビ的表現>が求められたのである。

(6)
テレビ局で仕事をしながら、免許によって制度化された時間を超えるとは、まことにアポリアというべき選択である。が、敢えてそのように問題を建てたところが60年代的であり、極めて優れた問いかけだったとぼくは思う。

(7)
その問いの延長にテレビマンユニオンはあるのであり、またいうまでもなくその問いはテレビ局に今も残されたままである。そしてさらに、半世紀の後インターネット時代の情報行為もこの問いから逃れられない。つまり、メディアの代替とは、この問いを背負うことでもある。

(8)
インターネットは免許の対象ではないというかもしれないが、免許という法制化ではない制度化や、あるいは制度化されざる政治的行為はいくらでもある。そのことを、今私たちはチュニジアからエジプトへの動乱の波及の中に、そしてさらに続くである情報と政治の果てしない連鎖の内に見るであろう。

(9)
「60年代のリアル」について、そしてテレビの<時間性>について書きながら、テレビジョンの可能性と不可能性を思い、そしてそれはほとんど50年前と同じ構造であるということに憮然とし、それでもなおテレビの内部の目線で状況を見続けたいと思う自分を発見し、再び憮然としている。

(10)
「お前はただの現在に過ぎない」の再刊について、そして村木良彦さんのテレビ的行為についてのぼくの思いは、このホームページの「メディアノート」に書いてある通りである。No.91,92,93.&110.(それぞれのナンバーをクリック)は村木さんへの追悼とテレビ論のためのノート、そしてNo.108,109.(それぞれのナンバーをクリック)は「お前はただの現在に過ぎない」の再刊を巡るいくつかの思いと補足である。是非参照して頂きたい。「60年代のリアル」の佐藤君や毎日新聞担当者諸氏もヨロシク。

                □

 遅ればせながら、「現代思想のパフォーマンス」(難波江和英・内田樹/光文社新書)を読んでいて、ロラン・バルトはまことに示唆的だと思った。
 バルトは「作品には起源がある」という前提に立つ古典的な文芸批評(「閉鎖系」としての文学)の言説を批判し、「作者に代わるのは『書き込む人』である」という概念を提案する。これを内田樹さんはインターネット時代の先取りとしての意味を読みとろうとしているようだ。
 こうした考えをバルトは1970年代に書いたというのだが、そうだとすると「『時間』をすべて自ら選択し内面化したあとで、それを『作品』として呈示することを『芸術』とするならば、時間を追うことによってのみ、独自の表現を持とうとするテレビは、芸術の第一義的本質を欠いている。・・・いわゆる『芸術』から見れば、『テレビ、お前はただの現在にすぎない』となるだろう」という、上記(4)の引用の後に続く「お前はただの現在にすぎない」のフレーズが1968年に語られたことは、どのような意味を持つのだろうか。そして、その後に「イエス。テレビ=私はただの現在でありたい」「テレビは、権力によっても、芸術によっても再編成されることを欲せず、現在(本文は傍点-引用者)そのものを創り出していく限りにおいて、自らの未来を決定しうるのだ」と表明されている。この間に、ジャズとテレビについて短い、しかし刺戟的な展開が挟まる。この時テレビは、ロラン・バルトの地平にかなり接近していたように思うのだ。
 テレビ番組をコンテンツとして商品化することは、市場を離れてテレビ局経営も制作会社活動もあり得ないのだから当然だ。ただ、テレビ番組の基底には、商品以前に、あるいは商品以後にも、テレビであることの理由が刻印されている。制作者を含めて人々が忘れたような顔をしていても、それは拭えないものなのだ。
 それを制作者や、あるいは視聴者の心情としてではなく、<論理>として構築し続けてきたかどうか、このことは文学とインターネットの間でテレビジョンというメディアのポジションを明確にしえないままに、<交代>が語られることにつながるのである。

                □

 ぼくは、いわゆる「現代思想」と出会い損なって、今になってあれこれ読もうと思ってもやっぱり無理がある。頑張ってみるけどね。ところで、あや取り手の諸兄は、その辺はどうなんだろう。「思想」の問題ではなくて、感性や生活の問題か?

                □

 ウィキリークス代表がノーベル平和賞候補になったという。
 TBSラジオで小澤遼子さんが「もうとっくに、なだいなださんが『ウィキリークス、ノーベル賞』説を何処か(筑摩書房の冊子?)に書いてたわよ」と喋っていた。
 そうなんだぁ…。




前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは”蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいからNHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。



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