「テレビはテレビの可能性を突き詰めているのだろうか」 ― 志村一隆

テレビの時間性は想像の共同体の形成を持ってしてその責務を負う

前川さんの2月5日のポストの(4)には、「テレビの時間性」について、権力によって許しがたい事実でも呈示してしまえる存在、これがテレビの可能性である、ということが述べられている。では、その可能性をテレビは突き詰めているのだろうか?
テレビが活躍する場は、政治と生活の幅のギャップにあり、そこで制度的担保による情報編集作業を行なうのがテレビである(メディアノートNo.29、関連12月24日前川さんポスト)というが、送り出す情報が視聴者同士で共鳴、共有されなければ、テレビが担保された責務は完了されたとはいえない。
まさに、テレビの孤独な視聴とインターネットの関係性、時間の空間性(メディアノートNo.138)を完結するのが、テレビメディアの可能性であろう。
しかし、視聴者が、テレビが送りだした情報を、茶の間、職場で話題を共有したのは、テレビより優る情報伝達手段が無かったからだ。
いまでは、国境を超えた話題の共有がインターネットで可能になった。そんな環境では、「テレビも情報系の一つの構成員として自らを位置づけないと、情報環境という「系」のなかで自分のポジションを見失ったまま自壊するであろう」(メディアノートNo.147
「インターネットに刻印された出自」は、「専門分野で成立したネットワークが相互接続され地域的、共通目的のため国境を超えて情報交換を行うものだ」。(メディアノートNo.41、参照:前川さん1月19日ポスト)そのつながりを、須田さんはタグと呼ぶ。(使ってもらえる広告 87頁、メディアノートNo.141)同じタグを持つ人同士がつながるだけでなく、違うタグでも、関連性のあるタグ同士もつながることが可能だ。
テレビとインターネットを組み合わせれば、「時間の空間性」が完結できるのではないだろうか。

インターネットはしなやかに戦う

免許主体が情報編集権を持ち(メディアノートNo.43)、自前のインフラが、権力に対峙する担保となっているのはわかる。電波法(メディアノートNo.146、107条参照)は国家安全保障システムだ。市場に任せていても、インフラを握っている企業が、特定サイトへのアクセスをシャットアウトしてしまうこともあり得る。そこは、アメリカのネット中立性議論のポイントだ。
しかし、チェコの地下ラジオは、プラハの春のとき、車で移動しながら放送を続けた。(お前はただの現在にすぎない、282頁)ウィキリークスも、サーバーを移動しながら情報提供を続けるだろう。
ハードとソフトが分離されているインターネットメディアは国家権力と対峙できるのか?
その戦い方は、テレビが権力と対峙してきた方法論とは違う。つまり、境界を飛び越え国家を国家とせず戦うのではないか。尖角ビデオの流出は、「いびつなかたちで漏洩(木原さん1月18日ポスト)」ではなく、インターネットメディアの方法論ではないだろうか。
むしろ、尖角ビデオは、現実が権力の時間管理を超えるとき、メディアはメッセージになるという(メディアノートNo.43)チャンスを逃してしまったといえる。

パンクミュージック的テレビ

インターネットでは、同一の人間が組織を持たず送り手にもなり受け手にもなる。放送は、組織という壁に入った瞬間に受け手から送り手目線になる。
「お前はただの現在にすぎない」には、放送労働者として、会社員としての行動の壁、テレビという表現形式を追求する姿勢が描かれている。「自分はテレビというメディアでどういうふうに現実とかかわっていくのか、自分が、テレビというメディアにどういうふうにかかわっていくのか」(お前はただの現在にすぎない、263頁)
番組制作は、結局個の表現で、それが時として経営と相反したときに、テレビマンユニオンのような動きが出てこないならば、それは、制度的担保に安住し、その責務を果たしているとは言えないのではないだろうか。
表現、制作物でしか個の衝動は伝えられない。個の表現として、必要なのは衝動であって手段、メディアではない。結局、枠組み、メディア論を語っても何を伝えるかが重要である。
テレビはジャズという言葉が、伝え方を指すのであれば、それはどうでもいい。大事なのは、表現したいものはなにか?ということで、それは映像、文、ブログ、音楽に関わらず、重要なことではないか。パンクミュージックが、誰にでも表現の道を開いたように、伝えたいという思いがなければ、放送労働者であれアーティストであれ頽廃が進む。
テレビは今でもテレビの可能性を突き詰めているのか?テレビとインターネットの関係性は、メディアの責務云々の問題ではなく、そこに携わる制作者の問題であると思う。




志村一隆(シムラカズタカ)プロフィール
1991年早稲田大学卒業、第1期生としてWOWOWに入社。2001年モバイルコミュニティを広告ビジネスで運営するケータイWOWOWを設立、代表取締役就任、業界の先駆けとなる。2007年より情報通信総合研究所で、メディア、インターネットの海外動向の研究に従事。2000年エモリー大学で MBA、2005年高知工科大学で博士号
『明日のテレビ-チャンネルが消える日-(朝日新書)』、『ネットテレビの衝撃(東洋経済新報社)』が絶賛発売中。ツイッターは zutaka



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  • 阿部圭介さん
  • 2011/02/13 22:58
特に前半部で、国民国家という単位をどう捉えるか、ハイパーモダンかポストモダンかを丁寧に勉強しなければならないなと痛感しました。

これまでと比べ国民国家という単位が絶対的ではなく、別の単位が生まれ、育ちやすい環境になっている中、しかし依然として国民国家という単位が存在している。これは今後どうなっていくのか。私自身が考えていく上で、そこを見据えなければいけないなと。

アンソニー・ギデンズの本を勧められながら、積ん読状態なので、やっぱり近々読まないとと思います。メディア論を語るための前段としてのこういうことの勉強会があったら面白いかもしれません。

一方で、ふと、国家ごとの免許制という制度によって、テレビは国民国家という「想像の共同体」の形成を促進することになったんだなと思いました。