「僕らはただの“なう”にすぎない?」 —河尻亨一

“超遅れてきた青年”として

初ポストは、前川センパイ(本当に同大学同学部の大先輩だった!)と志村画伯(wikipediaに水墨画をたしなむと書いてあった!)からあやをとってみたい(その少し前から続いている「テレビはジャズか?論」をふまえつつ、それを自分なりに再構築する試みとして)。ドキドキする。奏者たちがすでにスリリングなセッションを繰り広げているところへ、割り込んで行くあの感じ。久々に味わう。議論が蒸し返しになっている部分がある気もするが、一連のバトルに対しての弁証法的な止揚となるのではないかという期待もあり、若干乱暴めに書いてみた。若気のいたりとしてご容赦いただけると幸いである。

これまでのみなさんの議論についていくため、とにもかくにも『お前はただの現在にすぎない』を入手した。是枝裕和監督からだったろうか? この本については前々から話に聞いて気になってはいた。あやぶろ新年会でも話題になった伝説の書。“遅れてきた青年 by 大江健三郎”よりさらに3世代、いや4世代後? とさえ思える“超遅れてきた青年”(もはやオッサンか?)である僕に、ジャーナリストのバイブルとも言われるこの本は、どんなインスピレーションを与えてくれるだろうか?

で、読んだ。刺さった。メディア論としていまなおエキサイティングで示唆にとむ。青春の物語としても面白い。“コミュニケーション労働者”として日々巷をウロウロしている僕にとってのテキストとも言える内容だった。本書の著者たちがいまの自分と同年代であることが悔しくはあるが、なんにせよ復刊サンクス!(デジタル化も希望)。しかし、本書で展開される主張に対してこう思ったのも事実。「確かにテレビはただの現在なのかもしれない。しかし、それ以上に、村木良彦氏はじめこの本の著者たちのほうが“現在”だったのでは?」と。

報道のインプロヴィゼーション性の可能性に言及する「テレビはジャズである」という最終章に顕著だが、そういうことへの感度が高い著者たちがジャムセッションを繰り広げた場、当時はそれがたまたまテレビだった(新しい可能性を試せる場所がそこしかなかった)のではないだろうか。その点において、「テレビはジャズという言葉が、伝え方を指すのであれば、それはどうでもいい(志村さんの2月8日のポスト)」という言葉に賛成である。かつて実際にジャズをやっていた僕からすれば、「伝えるという行為はすべて“ジャズ”にすぎない」からだ。それはもちろん、コマーシャリズムの波によって内面化されたジャズではなく、本来のスピリットとしてのそれ。インタラクティブでスリリングなもの作りが行われる装置としてのジャズである。

つまり、「ただの現在にすぎない」という言葉は、ジャーナリズムを、そして表現の世界を生きるすべての者にとってのマイルストーンなのである。“超遅れてきた青年”である僕はそう解釈した。でないと僕らは面白くない(ですよね?)。だからこそ、メディアノート(No.110)でセンパイが引用されている村木氏の発言(「30年前とあなたは変わりましたか?」という質問に対する)「変わってないと思います。ぼくは、自分のいるところがテレビジョンだと思っています」も腑に落ちるし、共感できるのだ。僕とて僭越ながら、自分のいるところが“現場”だと思っている。つまり、そこがセッション空間である。

時代はすでに一周したのか?

ゆえに、このテーマは“テレビ”という系の中にクローズするべきではない、と僕は思う(特にいまは)。テレビが「ただの現在」にすぎないとするならば、インターネットも「ただの現在」にすぎない。あり方の位相こそ違うが広告も然り。なぜか? 私たち自身が「ただの現在」だからだ。「なう」な存在である僕たちはそこを足場に息をしている。あの本で繰り広げられているのは、結句、表現者としてその事実にどこまで誠実に応えられるか? という議論ではないだろうか。

どうすれば「なう」にアプローチできるのか? そこを考え抜いたとき、表現やジャーナリズムは社会に届くものとなる。ブレイクスルーは針の穴を通すようなもの。少なくとも僕はそのつもりで「広告批評」という小さな雑誌(実は“運動”)に関わってきた。

確かに60年代において、生々しい形で「なう」に対峙するパワーを持ち得たのは、テレビジョンだったのだろう。当時のトラディショナルメディアが持ち得ない表現特性や伝達の可能性がテレビには存在し、そこに賭けた人びとが(少数派だったかもしれないが)存在したことは僕らを勇気づける。しかし、いまや「現在」はテレビの専売特許ではないということを、“超遅れてきた青年”の側からは指摘せざるをえない。本書の著者たちが、いま20代の青年だったとすれば、彼らはテレビを選んだろうか? 時代はグラウンドを一周しているかもしれない。

事実、『お前はただの現在にすぎない』には、様々な実験的番組企画の構想が語られている。長くなるので全文は引用しないが、たとえば109ページから始まる萩元晴彦氏の証言。「これからやりたいのは、十五分とか三〇分の枠に規制されない、もっと完結性のないものです」以下のくだりである。萩元氏はこのニュース番組を、視聴者参加型のそれとして位置づけ、新宿西口広場のような屋外でやってもよいと語っている。はっきり言ってこれ、テレビっていうよりUstじゃん? こういうのなら僕もやりたい。

そうなのだ。いま僕たちにとって、現在とはAppleであり、Facebookであり、wikileaksであり、あるいはZapposかもしれない(日本の固有名が出てこなかった)。テレビジョンはいま、そういった“なう”に的確にリアクションできているのだろうか。時代をグルーヴさせているだろうか? もちろん広告も。それを考えると、僕は歯がゆい気持ちになる。

“なう”なお前ら表へ出ろっ!

<次のエントリーに続く>



河尻亨一(かわじり・こういち)
編集者・キュレーター。1974年生まれ。元「広告批評」編集長。現在は様々な媒体での企画・執筆・編集に携わる一方で、小山薫堂氏が学長を務める「東京企画構想学舎」などの教育プロジェクト、コミュニケーションプロジェクトにも取り組む。2010年、エディターズブティック「銀河ライター(Ginga Lighter LLC)」を立ち上げた。東北芸工大客員教授。



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