[「ただの<なう>にすぎない」から「近代の超克」まで…志村&河尻ポストへのコメント]②-1ー 前川英樹

ヘビー級のリングに連続して上がるみたいで、とても疲れる。相手が先輩ならヒット&アゥェーという手もあるが、こちらが“せんぱい”ではそうもいかない。ともかく始めよう。

                 (Ⅱ)
以下、河尻サンの書き順とは別に、<気づき>とか<思い>を刺戟された部分をピックアップしてみたい。

1.「というハードな感じで、あやプロは書き始めていいのでしょうか?スリリングな“ジャムセッション”にしたいものです」
Yes!
いま硬派の時代の予感がしている。ハードにしてしなやかな精神が必要になるだろう。と、ここで、平岡正明を思い出す…ジャス絡みで知ってる?河尻さん。
ついでに、「一連のバトルに対しての弁証法的止揚となるのではないかという期待もあり…」、そうか「弁証法的止揚」とスラッと書いてしまうところが、いまどきのハードなんだ。僕の場合はそこでチョットタたじろぐんだけど。

2.「そうなのだ。いま僕たちにとって、現在とはAppleであり、Facebookであり、wekileaksであり、あるいはZapposかもしれない・・・テレビジョンはいま、そういった”なう”に的確にリアクションできているだろうか」
<できてない>、それが答えだ。それは前回、志村ポストについてその理由とともに書いた。このことは、以下の全てに関わる。

3.「ここまで僕は『現在』という言葉と『なう』という言葉を夫々定義せず混在させている。…どちらかと言うと前者は『西洋社会の革命の成果として得られた”実存”の文脈に属するもの』であり、後者は『そことの断絶として現れた”ポストモダン”な文脈に属する』ものである」
感覚的には、そうなんだろうな、と思う。しかし、これは結構刺さって来る問題なのだ。
①「文脈として」はそうかもしれないが、「西洋社会の革命」と「ポストモダン」は断絶しているのだろうか。<断絶>もまた一つの関係という意味では、どのように断絶しているかが問題だ。
②このことは、河尻さんも関心がある「近代の超克」へのアプローチに関係する。「革命を経由せずして革命後に至ってしまった日本的パラドックスというもの。これは根の深い問題で、戦前にさかのぼれば『近代の超克』の形で表れるのかもしれませんが、時にそれは権力より手強い相手なのでは?」と言っているように。もちろん、そのとき日本の権力も「近代の超克」に絡めとられていた。日本は、ガラパゴス論も含めて「近代の超克」の掌の内にあるのではないか、秋葉原事件も。
③もう一つの切り口は「天皇とアメリカ」(テッサ・モーリス・スズキ/吉見俊哉 集英社新書)がヒントになるだろう。
④ついでに、些かギョーカイ内のことだが、この河尻さんの提示する論点にテレビの側で答える“玉”がいるだろうか。それって仕事に関係ないじゃん、それに忙しくて、そんなこと考えてる暇ナイんす、って言われそうだ。どんなに忙しくても、仕事と関係なくても(大いに関係あるんだけど)考えることを考えないと、ギョーカイはどうでも良いとして、「表に出た」とき風邪をひく、熱を出す・・・ね、木原君。

4.「60年代のレボリューションも、権力というより、むしろそちらに屈したというか、張り子の虎と戦っていた部分があるのではないでしょうか?」
ここはもうちょっとリアルな会話が必要だと思う。
60年代に党派性を超えた運動が生まれ、あっという間に終焉した時、戦後というより日本の近代の一つのテーマが空洞化した(例えば、左翼から「サヨク」へ)。ここのところが、「最終的に、“それ”はサブカルに回収され消費されてしまう(イージーな形で内面化されてしまう)」というのはそうなのかもしれないが、何故「サブカル的に消費されてしまって」思想的に不毛だったのか。ポストモダンだって流行のようなものだった。「スカだった」といわれる80年代と、それに続く失われた10年、日本人は何をしていたのだろう、とわが身を省みつつそう思う…で、<今>がある。「近代の超克」と「戦後という虚構」の二重の“負”を掛け合わせればさらなる“負”に繋がる。数学のようにプラスに転化することはない。ホントの本当に「根」は深い。
突然だが、東大全共闘議長だった山本義隆さんが、予備校教師をしながら書いた2冊の本、「磁力と重力の発見」「十六世紀文化革命」のことをここで思った。ぶれない(=責任を取る)って容易じゃない。

5.「問題はテレビだけのことではないのです。メディア環境全体を見渡してリ・デザインしないと…風土改良にならない気がします。僕がイメージしているのは、そういった意味でのエコシステムです」
これは、情報環境を<系>として捉えるという、ぼくの発想と共通するように思える。このことは、志村さんポストの論点にもつながる。
もうひとつ、かつて僕は<Re-Television=再びテレビジョンへ>といったことがある(「メディア論ノート2002」/「高度情報化社会の未来学」NTT出版所収)。このことと、<系>として情報を捉えることとを突き合わせたところに、メディア環境のリ・デザインが展開されるのだろう。

6.こういうことがキュレーターの仕事だとすると、キュレーターってなかなか凄いんだ。「キュレーションとは、マス的メディア空間とソーシャルな言説空間を接続し、時間軸の中でコミュニケーション設計すること。そしてそのことで、時代にグルーヴを起こすことである」ここでのキーワードは“時間軸の中で”だろうか。で、問題は7.に続く。

・・・ここで、ブログの字数制限があって終わりまで入らないという。しょうがない、続きは次のポストになる。ヨロシク。



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