「空腹と空虚のあいだで」 ― 河尻亨一

燃える人々・萌える人々

本当ならそろそろ須田(和博)さんの出番だが、「今週末もパツってますので、河尻さんが、燃える方向で、がぁーーーっと、いっちゃってください!」ということだったので、お言葉に甘えて。前回むやみに長くなってしまった反省もあり、がぁーーーっというほどには燃焼しないと思うが、中東がメインテーマになっていた前2回をふまえて早速本題へ。

前川さんの「メディア論ノート2002」を受ける形で、中東のデモのメカニズムを志村さんはこう読み解いた。「空腹はテクノロジーで拡張された感覚では満たされないし、空腹が満たされていれば、街頭に出る必要はない」。
それに対して前川さんはこう応じた。「空腹が満たされることと、『街頭に出る/出ない』こととの関係こそ、いま私たちが考え抜くべきことではないかと思うのだ」

ここでひとつ、二人の“あや”が交差してる気がする。果たして「空腹と街頭に出る/出ない」はいかなる関係にあるのか? 次の“あやとらー”はそこへアプローチせよということだろう。「考え抜くべき」のひと言がコワいが、以前の「表へ出ろ!」話につながる部分もあるので頑張ってみる。

二人の共通認識として、街に出た中東の人びとは空腹なのだという。ここで言う「空腹」は物理現象であり概念だ。人々は自由がない社会で精神的にもハラヘリなのだろう。その前提があり「情報の市場非対称性を消すインターネット上のコミュニケーション行為の結果として」(前回の志村さんのポスト)、多くの人々が街へ出た。

そこから導きだせる半ば常識的な結論がある。それは「街頭に出ない僕たちは“空腹”ではない」というものだ。しかし、だからと言って、情報の市場非対称性は日本にもないわけではない。だから皆、Twitterなりblogなりに頼まれもしないのにせっせと何かを書き込んでいるのだろう。では、「空腹」に替わるそのモチベーションとはなんだろう? と考えて思い当たる言葉があった。もしかすると、それは“空虚”というものかもしれない。「街頭に出る/出ない」のアクションセットは、「燃える/萌える」のマインドセットと相似形である。 



バカと暇人の壁

ここで、前川さんが前回述べた「革命的可能性と日常的有用性、そして個別具体的愚かしさの幅の中にインターネットの“現実”がある」の話になる(あるいは書籍『ウェブはバカと暇人のもの』について)。平たく言えば、「パンと自由につながるコミューン」となりうるインターネットが、なぜ地球の別の場所では「バカと暇人のパラダイス」になるのか。その“現実”とはなんなんだ?

ちなみに、僕は基本「ウェブはバカと暇人のもの」でいいのでは? と思ってる。その“現実”はウザいが蔑む気にはなれない。そこへの逆説的表現として「『カルボナーラなう』でいいじゃん」と発言したりさえしてる(「“オレたち”カルボナーラなう」は苦手)。それは自分もそーいうもんだっていう意識があるせいだがもうひとつ。“カルチャー”はバカと暇のかけ算みたいなとこもあるわけで。ピラミッドでも、哲学でも、Facebookでもなんでもいいのだが、それは暇人たちによる大いなるムダや虚栄心(ときに理不尽)から絞り出された結晶でもある。

僕自身も含め、日常における人の集合体は「バカ」であり「暇人」な要素が大きい。ウェブというシステムは、世の中の歪みも含めて、社会を反映しているだけとも言える。以前こう_いう経験をした。「自分のTLがつまらない気がするがそれはなんで? 何が楽しくてバラバラの情報を投げ合ってるんだ?」とふと思い、何人かのツイートを時系列に追ってみたところ、そこにはちゃんとロジックめいたものや喜怒哀楽がストーリー化されており、それぞれちょっと面白くて驚いた。なんのことはない。自分もそういった一員にすぎないのである。Twitterというウェブサービスにデザインされた時間表示のシステムの中では、それが“集合痴”のフィクションとして現れるケースもあるという、これはパラドクスである。このパラドクスは、現在の日本において、市場の論理(視聴率・視聴数原理主義など)にバックアップされており、そのことが一層話をややこしくしている。かくのごとく“バカと暇人の壁”はけっこうブ厚いのである。それをふまえた上で「どうブチ破るか?」を、さあ、みんなで考えよう。

前川さんは「情報社会の対称性は市場の力学とは別の関係によって担保されなければならない」と言う。示すものが違うかもしれないが、僕も「コミュニケーションの“市場”において、すべてを見えざる手に委ねることはできないのでは?」という意見である。志村さんは先の前川さんの発言を受けて、「いまのところ、その関係は『受け手の共同性』と『リテラシー』でカバーされる方向性にある」と応じた。これにも賛成だが、では「共同性」や「リテラシー」は何が(誰が)担保するのか? ユーザーのモチベーションか? あるいはシステムが生みだすフィクション(神話)だろうか? 両者の関係性は? 色々気になることがある。少なくとも情報の送り手である以上、そこに敏感にならねばならないと思う。



「ダダ漏れ」が映し出したもの

(ここまでの展開は前川さんに“ブログ的”でないと批判されると思うが、あえて表に出る。「あやブロ」というシステムが「いってまえ」と僕にささやく)

実はこの週末、「街頭に出る/出ない」を考えるきっかけになる、ちょっとした事件があった。あるインターネット動画配信会社関連の炎上騒動だ。これにより僕は、情報の非対称性をカバーする「共同性」と「リテラシー」、そして「システム」のダイナミズムを改めて考えた。日頃はそれほど炎上という現象には関心がないが、この件は取材する側が避けて通れない部分もありそうな気がして追ってみた。そして、ここにも空虚を見た。

この会社が始めた、Ustというテクノロジーを用いた「ダダ漏れ」という企画は、さっき言った意味での暇人的アイデアとしてラディカルで画期的なものだったと思う。それはちょっとしたブームにもなった。「これこそ、テレビに替わる新しい映像ジャーナリズム手法なのでは?」的なことを言っていた人もいる。で、自分もご多分に漏れずマネしたというか、iPhoneでUstを試してみたりもした(昨年カンヌ広告祭のとき with 須田和博氏)。

Max20人そこそこしか見てないが世界生中継は楽しかった。しかし、それだけしか見てないのに、これはとにかく疲れた。報道者の端くれである以上、“オンエア中”は生の世界に一人で対峙し続けなくてはならないからだ。そこには演出どころか時間軸の編集さえない(時間もダダ流れ)。しかし、伝える人たちはいることのプレッシャー。それは「お前はただの現在にすぎない」が提示したジャズ的手法ともまた違う気がする。経験による感想としては、ジャズはジャズでも、FREE JAZZの演奏に近いというか……。コードやモード、リズムの制約から自由すぎて、何をやってもいいので何をやればいいか逆にわからず、あの手この手出し尽くした挙げ句ヘロヘロになる。

もしかして……。「ダダ漏れ」にもこの手の壁が立ちはだかったのか? 世界に対峙し疲れていたのだろうか? いや、違うかもしれない。問題とされたニュース番組のアーカイブをいくつか見てみたのだが、対峙といった空気はない。そういうことには価値を見い出してないというか。その意味で「ダダ漏れ」は空虚を映し出す装置であり、そこが革新性とも言えるのだが(そのことによって批評性を持っていたが)、その作業がコミュニケーションとして行われたとき、コンテンツはただの日常(暇)に回収されるかされないかのギリギリの駆け引きとなる。暇人たちはそれを好む。そこに、己の空虚にシンクロする何かを見い出して癒されるのかもしれない。僕は戸惑う。空腹と空虚のあいだで。それが“現実”であり“現場”だ。


この同じ空の下で

ここで結論だ。「街頭に出る/出ない」の関係は、「空腹/空虚」「革命/炎上」の視座から浮かび上がる。「カダフィ」と「ダダ漏れ」は、バーチャルな情報空間における深いレイヤーでそのようなつながり方をしている。「空腹の国」では、人々がリアルな場に繰り出す形で革命が起こり、「空虚の国」では、人々がバーチャルな場に働きかけて炎上が起きる。そのメカニズムには共通項がある。日本と中東は「空」を共有してはいる。

カダフィは「私は退任不可能な地位にいる」という意味の発言をしたそうだが、言葉を変えるとそれは「自分はプラットフォームの管理人であるだけだ」と言いたいのではないか? もはや彼は自分がフィクション化されたシステムだと思いこんでいるのかもしれない。「信用」の比喩で言うなら、いわば自称“生ける通貨制度”であり、独裁はこのような形で延命をはかるものかと思い知らされた。

一方「ダダ漏れ」は正論にさらされたとき、意外なほど脆かった気がする。こういったことは現在、このメディアだけでなく、いつだれの身に起こっても不思議でないようにも思う。システムは目新しさがなくなるとメディア自体に備わっていた批評性も薄れ、運営も大変になっていくのかもしれない。かたや「信用」は流動的であり、本来その相場における乱高下を緩和する機能として「ブランド」というものがあるように思うが、今回の一件はソーシャル時代におけるそれが何かを考えざるをえない。そして、この問題とはテレビも無縁ではいられない。

だが、実は僕の関心の中心はそこにはない。どちらかと言うと「空虚は何によって埋めればいいのか?」にある。最初に引用した志村さんの言葉をあやとり的にアレンジするなら、「空虚もテクノロジーで拡張された感覚では満たされない」からだ。そのヒントは「表現と身体性」ではないかと僕は考えている。





河尻亨一(かわじり・こういち)
編集者・キュレーター。1974年生まれ。元「広告批評」編集長。現在は様々な媒体での企画・執筆・編集に携わる一方で、小山薫堂氏が学長を務める「東京企画構想学舎」などの教育プロジェクト、コミュニケーションプロジェクトにも取り組む。2010年、エディターズブティック「銀河ライター(Ginga Lighter LLC)」を立ち上げた。東北芸工大客員教授。








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