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時代をリ・パッケージする―「調査情報」あるいは「Chim↑Pom」 河尻亨一

3月に「地震×ソーシャル」のレポートを書いてから、しばらく「あやとり」から遠ざかっていた。被災地に2回足を運んだこともあり(南相馬と石巻)、そのことで貯金以外のものが色々貯まってしまい……(仕事お仕事)。そろそろ復活したいなと考えていたところに、「調査情報」500回記念号が届いた。

いいタイミングだ。前川さんポストの“あやとり”から始めよう。この「調査情報」は読み応えがあった。50年以上にわたってテレビをドキュメントしてきた紙のメディア。この媒体に対する読み解きと500号の読みどころについては、前回のセンパイ記事に詳しく書かれているわけだが、若輩者ながらリスペクトの気持ちをこめて、自分なりにも別アングルからコメントしておきたい(元・雑誌屋なもので)。

まず通巻500号というのがすごい。雑誌を“やったり”“やめたり”した経験がないとピンとこないかもしれないが、このことにシンプルに感動した。毎月テーマ&ネタを絞り出し、生の言葉で記録する。それを50年以上継続することの並々ならぬサムシング。イマふうに言うなら“ハンパねえ”ってことである。その意味で「ネ申」なメディアだ。

マニアっぽい感想で言うと、500号の表周りにアレンジされている歴代バックナンバーの表紙も見どころである(ここに「広告」を入れなくてよいのがうらやましい)。それぞれの時代の空気感ムンムンだ。なかでも60~70年代前半までの表紙は“トンガって”る。「この頃がテレビにとってアツい時代だったのだろう」が目でわかる。雑誌の表紙はときに中身以上の何か、つまり「そいつが時代にとっての何者なのか?」を物語る。ようは衣装だ。

この中身と表紙の関係性を、僕は「パッケージ」という言葉で説明することが多い。たとえば「広告批評」という雑誌にとって、いまどんなパッケージが望ましいか? というふうに考えていく。それが「編集」のもっとも重要な作業、つまり基本設計、言葉を変えればOSだ。もちろん、中身あっての表紙であり、表紙あっての中身である。いくらいい服を着ていても「着負け」というイタい状況になることもある。ロマネコンティのボトルにシャネルのNo.5を満たしても、それは悪いジョークと取られるだけだ。ようは着こなしが肝要なのである。

そのパッケージデザインがうまくいけば、メディアと時代の化学反応が生まれる。では、果たしてテレビにとってのパッケージとはなんだろう? それは時間軸を含みこんだなにかだろうか。

今日的メディアのパッケージとは? そことソーシャルとの関わりは? このあたりが僕のここ数年の課題である。

いずれにせよ当時は、雑誌というメディア自体もまだ「いくぜ、これから」な時代だったのだろう。パッケージもいくぶん作りやすかったのではないかと推察する。

しかし、前回の前川さんポストでも言及されている、巻頭の宮台真司氏の緊急寄稿の言葉を拝借するならば、実はこのメディアにも従来からの「心の習慣」をまったく感じないわけではない。

僕自身は「心の習慣」に違和感を抱いて(いずれ抱くようになると予期して)紙を折りたたんでしまったわけだが、「調査情報」はそこのところどう考えているのだろう? 今回はアーカイブ記事が中心だったので、その意味での50年パッケージは成功していると思うのだが、次回の「東日本大震災とメディア特集」もぜひ読んでみたい。

「心の習慣」に話を戻そう。今回の震災報道に関して、従来型の「心の習慣」の奇妙さをもっとも的確に言い当てていたと僕が感じたのは、実は中学生アイドルのブログだった(藤波心さんによる『ここっぴーの★へそっぴー』/3月23日のエントリー/http://ameblo.jp/cocoro2008/entry-10839026826.html)。

ソフトバンクの孫正義社長が絶賛して一気に知れ渡ったブログだが、その前からTwitter上では話題になっていた。万一未読の方はお目通しいただきたい(先入観抜きに)。「風評」に関しては正確な情報提供が必要であることはもちろんだが、あのタイミングを考えれば、多くの人が感じていた(が言えなかった)ことを、よくここまで書けたなあと正直思った。それは彼女が「別の心の習慣」に従って生きているからだろう。

「心の習慣」の奇妙さは、先週行われたアーチストグループ「Chim↑Pom」への囲み取材でも感じた。彼らは、渋谷マークシティの「明日の神話」(岡本太郎)に二次創作的行為を行い(もちろん原作には手をつけていない。一部メディアはそのレベルでも正確な報道ができていない)、福島をテーマにしたエキシビジョンを行っているが、彼らの創作に対するマスメディアの思惑は、概ね“仕業化”したいものであるように感じた。ここにも断ち切れぬ「心の習慣」がある。

僕は彼らのシンパでもないしファンでもないのだが、その方法論には僕が考えている「アクション・ジャーナリズム」に通底するものがある気がしている(長くなるので、これについてはFacebookの「銀河ライターファンページ」で論じる予定)。簡単に言うと、アートパフォーマンスを通じて時代を身体的に記録する試みである。ここには「お前はただの現在にすぎない」が提示したことにも近い何かがある気がするのだが……。

「時代(福島)に対するアクション→ソーシャル(youtube)を通じた問題提起→他メディアの関与→リアルスペースでの展示」の時間軸にも意図を感じる。もし彼らがマスメディアによる“仕業化”までをも作品の一部と想定しているのであれば、僕の言うマスとの「ハブ」的機能も果たすことになる。コラボレーションを逆手にとることで批評性が生じるだけでなく、この流れは時間軸をも含み込んだ「ソーシャル・パッケージ」の可能性をも示唆している。

それはさておき。「心の習慣」は従来型のメディアにのみ当てはまるものでない。それは僕が前回、前々回のポスト(3.11ソーシャルの側から/空腹と空虚のあいだで)で書こうとしたことでもある。新しいメディアに対しては「新しい心の習慣」が生まれつつあり、それはそれでハードな面もある。大切なのは「心の習慣」を否定することではなく「いかに築いていくか?」である。

追記:今回の「調査情報」では、金平茂記氏の「われら皆、『大津波』の同時代人、われら皆、『フクシマ』のこどもたち」がもっとも好きだった。思うに、金平氏自身がすでに“ソーシャル”なのではないだろうか? その本質はメディアやテクノロジーではなく、結局は生き方(時代に対するスタンス)なのだと思う。「ソーシャル」の意味を考えればそれも当たり前の話だが、それはネット的でありテレビ的にもなりうる、ということを確認しておきたい。そして、パブリックを前提としないところにメディアはない。ただし、「パブリック」の意味はすでに変容しつつある。

追記2:パッケージには付加価値を生み出す力がある。あの小瓶あってのシャネル5番なのだ。つまり、ソーシャルのパッケージ化(昨今の流行りではプラットフォーム)はビジネスとしてのポテンシャルが高い。この流れを受けて、テレビサイドではどういう試みがなされているのだろう? 新しいパブリックの“見えざる手”のもとで、それをいかにフェアに行うかが、今後の課題になってくるだろう。


河尻亨一(かわじり・こういち)
編集者・キュレーター。1974年生まれ。元「広告批評」編集長。現在は様々な媒体での企画・執筆・編集に携わる一方で、小山薫堂氏が学長を務める「東京企画構想学舎」などの教育プロジェクト、コミュニケーションプロジェクトにも取り組む。2010年、エディターズブティック「銀河ライター(Ginga Lighter LLC)」を立ち上げた。東北芸工大客員教授。



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