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アートとメディア in シカゴ ― 志村一隆

シカゴメディア体験
6月が欧米の住んでいる人にとって、いかに楽しい夏の日々なのか実感した。

● 月曜にNBAでダラスが優勝、火曜はNHLでボストンが優勝。ボストンに
   負けたバンクーバーでは、暴動が起きた。
● ウィンタースポーツが終わり、野球、ゴルフの全米オープン、ウィンブルドンの
   季節。木曜午後のリグレー・フィールドは、超満員。
● 朝のモーニングショーは、NBCがロックフェラーセンター、ABCは
   セントラルパーク、CBSもマンハッタンから、屋外ミニコンサートの中継。
● トークショー番組で、シェフがゲストで料理を披露するコーナーがあり、
   司会者がガイガーカウンターを魚に当てると「ガー」といちだんと音が大きく
   なる、というジョークをしていた。
● ある日のローカルニュースの話題:イリノイ州の教師の給料を4%上げる
   法案が否決。ホテル従業員の賃金値上げデモ。地元出身のイラクでの
   戦死者の葬儀。ウィリアム王子とケイト妃がカリフォルニアを訪問。
● ある日のナショナルニュース:下院議員のプライベート写真がソーシャル
   メディアに流出し、彼は辞職。 ギリシャで暴動。


巷とマスメディアのズレが顕在化したあと・・・
日舞の師匠が、放射能汚染について「もう腹くくるしかないでしょ。自分だけ生き延びても仕方ないし」と言う。ある女性は「この野菜は大丈夫って、押し付けないでほしい。自分はそんなの食べるの嫌だし、そんなこと言う人は自分が食べてほしい」と言う。
ソーシャルメディア登場以前は、こうした巷の意見は顕在化しなかった。ひとたびその意見がツイッターでつぶやかれ、ブログがシェアされると、それがインターネットコミュニティで発見され、ソーシャルに評価される。マスメディア、権力からのお墨つきは不要だ。
このソーシャルメディア空間は、マスメディア情報とのズレを顕在化し、記録していく。
「日本社会の特徴は『共同体主義』で、そこには『特殊意志(社会内社会の特殊な意志)』だけがあり、社会の総体をくまなく覆う結合の論理としての『一般意思』がない。(本当は)一人ひとりが違う差異に立脚した結合こそが必要なのだ。前者を原理とするものを『共同性』、後者のそれを『公共性』と呼ぶ」という加藤典洋氏の考え方を紹介した(「さよならゴジラたち-戦後から遠く離れて」)(2011/6/7 前川さん)
個々が違う差異を持つ点から出発する結合が日本に無いという主張は、マスメディアが作り上げる共同体上の事情ではないか。身の回りのリアル社会は、個が差異を持ち、公共性も発揮していたのではないだろうか。
同じ6/7ポストで、「裏返せば、「一つだけの見解」からマスメディアが脱却するためには、<社会(=他との関係性)そのものがインターネットのソーシャル体験が増えることにより生ずる「ズレ」を前提としたものになるのだから、マスメディアもそれを前提せざるを得ないのであり、その視点を変化させなければならない>ということだろう。」 と前川さんに言葉足らずの部分を捕捉して頂いた。
問題は、マスメディアが、そのズレを何と認識し、またその視点を変化できるのか?という点にある。
情報発信源としての国家が、ソーシャルメディアを公認し、利用すると決めたら、既存マスメディアを見放しはしないか。もし、いまマスメディアが国家から見放されたら、そのアイデンティティは何に基づくのか。

リアル、デジタルコピーとメディア
前回のポストで紹介したデジタルコピーが展示されている展覧会は、入場者が16万人いたという。。そのうち何人がコピーだと気付いたか。コピーをオリジナルと思って見る人、コピーをコピーと知って見る人、オリジナルしか見ない人。。。
シカゴの野球場リグレー・フィールドで見たカブス福留選手のプレーは、テレビで見るのと、印象が違った。
野球場には本物のオーラがあったのだろうか。すると、メディアの映像は、本物を伝えているがオーラを失っているのか。メディアの視点が、そのオーラを失わせているのか、それとも機能的な問題なのだろうか。はたまた、テレビ映像は、メディア表現としてのオーラを放っていないのか。
もし、そうならばメディアはリアルを超えられないのだろうか。
発信者と受け手の間に存在すべきメディアの視点。しかし、受け手に「やっぱり実物がいいね」と言われたら、表現として自立しているとはいえまい。
そして、社会のなかでその状態を放置し続ければ、実物を希求する人ばかりが増えていく。事実とのみ直結された社会は、純化された正しさだけが残る寛容性の低い社会だ。そんな社会では、メディアも息苦しい。

現代アートとメディアの役割
シカゴ美術館に、黒地のキャンパスに大きく「Oct. 31, 1978」とだけ描かれている河原温の作品が展示されている。
表現を抑えるほど、捉え方は多様化する。5W1Hのうち、「いつ?」だけを切り取った作品の前に、個々は差異を持たざるを得ない。
事実の写生から脱皮した現代アートの文脈に、差異を前提とした空間が形成される。
それこそがアートの社会的役割とするなら、現代アートが作品を生み出し続けるのは、マスメディアが社会的機能を果たしていないことへの警鐘ではないだろうか。
我々個人も知らず知らずのうちに、情報発信の受け手としての役割に甘んじていたのではないか。差異ある個々の発露と公共性の発揮を社会に顕在化させる努力と勇気を忘れそうになっているかもしれない。
ソーシャルメディアがそのことを気付かせくれ、現代アートはその手法を教えてくれる。
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志村一隆(シムラカズタカ)プロフィール
1991年早稲田大学卒業、第1期生としてWOWOWに入社。2001年モバイルコミュニティを広告ビジネスで運営するケータイWOWOWを設立、代表取締役就任、業界の先駆けとなる。2007年より情報通信総合研究所で、メディア、インターネットの海外動向の研究に従事。2000年エモリー大学で MBA、2005年高知工科大学で博士号
『明日のテレビ-チャンネルが消える日-(朝日新書)』、『ネットテレビの衝撃(東洋経済新報社)』が絶賛発売中。ツイッターは zutaka



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