[2011.7.24. アナログ終了の日]―“地デジ”を巡り、議論されたこと、議論されなかったこと(II)- 前川英樹

多分、この(II)がアップされるのは7.24.より後だろう。その日をまたいで掲載される方が、地デジ問題が残したものを考えるには良いかもしれない。

3.「公的支援」論争
地デジを巡る議論は実に複雑多岐に亘った。それは、確かに最大普及メディアの方式変換ということが及ぶ影響の大きさによるものである。しかしそれだけではなく、もう一方では、デジタル技術による情報分野の変化が構造的なものであり、放送界の外からはそれを市場としての成長として期待する視点が強く打ち出されてきたからであり、また他方では放送に関する規制のあり方がこうした市場形成の力学と整合のとれたものでないことによる論点のズレによるところも大きかった。
その一つの典型が「公的支援」を巡る議論である。もちろん他にも、というよりもっと本質的な議論はあった。だが、この論点は、とても分かりやすいので取り上げておこう。この議論は二段階に分かれる。
(1)まず、アナログチャンネル変更の経費負担についての議論である。現実にテレビ視聴を享受している視聴環境の変更は、誰の責任でどのようにコスト負担されるべきかが論点となった。送信責任は免許主体である放送事業者にあるのだから、事業者負担であるべきというのが行政の考え方であり、これに対して、周波数事情によってチャンネル変更せざるを得ないのだから、周波数監理責任を有する国が責任を持つべきだ、というのが事業者の主張であった。
また、視聴者=国民にテレビを見る権利(文化的生活及び知る権利の行使)があるのだから、国はそれを補償するべきだとする事業者と、それらの権利は代替する別の手段があるのだから国が補償する必要はない、という見解の行政との議論でもあった。
結局のところ、地デジ関連質疑のあった衆参両院の関係委員会のNHK予算審議において、その議決に関する付帯決議として「公的支援の在り方を含め検討すること」という趣旨が明記されており、これを踏まえることとして国の負担の筋道が建てられた。そして、その財源は一般財源(=国税)ではなく、通信事業者放送事業者が納入する電波利用料とされたのだが、これについて、当然通信事業者は反発した。
しかし、これ(国費投入)により、デジタル化についての経営判断(開始、終了の時期、コストのミニマム化など)は、国のデジタル化方針によって拘束されることになる。
• 次に、デジタル化そのものの経費についての支援を巡る議論があった。
地上民放事業者は、放送法により放送対象地域における「あまねく普及努力義務」が求められている(NHKは「あまねく義務」)。日本の地上放送局が逼迫する周波数事情のなかで、アメリカの放送局に比べて一親局当たり3倍の中継局建設しているのには、こうした背景がある。
デジタル波は送信効率が良いといっても、アナログ時代の50年間でカバーして来た地域を、5年~8年でデジタルに置き換えるのは経営的に無理があるため、そこには「公的支援」が必要だ、ということになる。一方、国はそうした規制を前提にした免許制度の下で経営して行くのが放送事業者の責務なのだから、経営責任として対処すべきだ、という。
この議論に、「報道機関である放送局が国から金を受け取っていいのか」、「放送産業自体の規制緩和が必要だ」、「そもそも放送局の人件費は高すぎる」などの件が出てくる。ローカル局は、例えば「デジタル・インフラは出来たけど、編成制作コストが圧迫されて、番組が細ったのでは何のための放送局か」など、経営実態とデジタル設備投資の負担について詳細に説明するが、なかなか理解を得るのは容易ではなかった。
これらの議論は、民放・NHK・郵政省(総務省)で構成された「地上デジタル放送に関する共同検討委員会」や、その発展系である「全国地上デジタル推進協議会」を越えて、地デジ政策の公的検討機関である情報通信審議会「地上デジタル放送推進に関する委員会」の場で、通信事業者、ケーブルテレビ事業者、メーカー、消費者、有識者などを交えて行われた。もちろん、この情通審の最大課題は、デジタル化による視聴者・消費者の不利益変更や混乱の最小化であり、そのための支援方策の検討であった。
こうした場で、放送事業者の主張がどれほど合理的で説得的かということを、放送事業者は試されたのだった。
この問題も、結局のところ行政の知恵(さまざまなスキームの活用)により、放送事業者+総務省vs財務当局という図式の中で現実的解決が図られることになる。

4.本当に議論されるべきことは何だったのか
今にして思えば、という類の話は後出しジャンケンみたいになるので止めようと思う。しかし、そうは言っても、“地デジ”は産業政策か公共政策化、そのいずれの場合でも「放送法」とはいかなる法律で政策的にどのような意味を持つのか、などについてもっと踏み込んだ議論は出来たはずだ。仮に法律論を行政とやっても勝ち目はないとしても、民放内部論点を深めることは出来ただろう。
とはいえ、現実的に、“地デジ”に向かって踏み出す(踏み出させる)には、極めて大きなエネルギーが必要であり、相手が誰であれ「くたびれた、もうイイヨ」と言わせることも含めて、地上放送をデジタル化するということは、こっちも疲れたというのは本当だ。その上で、行政との折り合いの付け方や、通信・ケーブル事業者などとの論争(IP再送信や区域外再送信問題など)も果てしなく、と言っていいほど続いたのだった。そういえば、デジタル圧縮技術のMPEG4・PART10-AVC(H.264)なるものの国際的特許交渉の国内とのまとめ役まで回ってくるとは思わなかった。疲れるわけだ。
地デジとはそのような幅と深さが求められる難問であったことは間違いない。

ところが、この10余年放送事業者が相当のエネルギーを地デジに割いている間に、ウェッブの世界はソーシャルメディアとスマートホンが急成長し、情報社会歩席巻している。その間に、「竹中懇」が提起した問題、一言でいえば情報産業の成長戦略と規制の在り方、は放送法改正に至るのだが、この間の放送事業者の対応“地デジ”で深められなかった論点を継承しきれないままに終始したように思われる。
特に、放送事業者は「放送は公共的だ」と言い、それが制度的に担保されていることを前提に議論しようとするが、果たしてそうか。第一に、公共性とは制度に依拠して成立しているのではなく、放送事業者が情報提供(あるいは表現)を継続する中で視聴者との関係において成立する信用信頼の蓄積により形成されるものであり、第二に例えば通信にも公共性があるのであって、それが制度として何故異なるのか、などについて語られるべきだったと思う。
それが、デジタル化が放送だけでなく、情報社会全体の構造を転換させる時代、そして複合的・多層的情報空間が成立しつつある中で、放送とは何かを考えるために欠かせない論点だったのだ。

今、東日本大震災の後で、というよりは東日本大震災状況が進行しているなかで、ローカル・ジャーナリズムの再評価が語られているが、放送論そのものの再構築のために、“地デジ”の経験の論理化が必要なのである。そうでないと、放送は学習効果のないギョーカイと言われてしまうに違いない。



前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは“蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいから NHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。



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