最近の記事

カレンダー

<<   2019年11月   >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

月別アーカイブ

<<   2019年   >>

このブログで使用したタグ


「盛り上がった“あやぶろ会”とその後のメール論議」② - 氏家 夏彦

つづき・・・

************************************************************
■2011年7月26日16:55(志村)
ありがとうございます!
政治的公平性の意味と無意味とは、民主主義とソーシャルメディアを含むマスメディアの関係ということでしょうか???もし、そうでしたらその通りだと思います。

自分は、マスメディアの情報伝達、編集能力はソーシャルメディアに置換されると思います。これは誰もが思っていることですが。。
それで、もしネット的なメディアに世の中の情報流通が集約されると、必然的にオンデマンドな行動が内在されるので、毎朝何百万の人が同じ新聞を読み、夜7時に同じニュースを見る社会から、小さなコミュニティが点在する世の中になると思います。

人の意識も、何もしたくない人、したい人の2極化になるんだろうと思います。
自律性を持った人がいて、その人たちがボランティア、交換といった概念で生産活動を行う、そしてその規模でのコミュニティができる。
というストーリーになると思うのですがどうでしょうか。

河尻さんが広告のメインストリームがテレビでないというのが象徴的だと思います。枠組み、体制に関わらずリターンを得なければならない彼らの行動は、マスメディアよりも一歩先を行くのではないでしょうか。
売る先のコミュニティは小さく、そして点在しているがための、ウェブとリアルの連携だったり。ソーシャルに流して、長期的なエンゲージメントを重視するといったコンセプトになるのではないかと思います。
河尻さん、どうでしょうか??

あやぶろ会で前川さんが、ファッショ体制がでてくるかもしれない極めて危険な状態とおっしゃられていましたが、いま日本でソーシャルメディアを使って選挙活動をする政治家がでてきたら、一気に既存体制をひっくり返すと思います。
オバマ大統領やジャスミンと同じことは原理的にも起こせると思います。ただ、空腹でないからしないだけかなーと。

年次レポート、とても面白かったです。セミナー聞いてみたいです。

志村


■2011年7月26日18:34(氏家)
志村さん
セミナーですが、いっそのこと、志村さんパートは志村さん自身が話すというのはどうですか?時期はおそらく夏休み明け、期末特番期前の9月あたまくらいかなと思ってます。

それから志村さんのメールにあった
>自分は、マスメディアの情報伝達、編集能力はソーシャルメディアに
>置換されると思います。
これがどうも具体的にイメージしにくくて。そのうち教えてください。

河尻さんが言ったのは、広告のメインストリームがTVじゃない、というより、広告の概念が変わってしまっているのが前提としてあり、表現の手段としてテレビ以外の比重が増している、という意味かなと思ったのですが。
認知度を上げる、それによりマネタイズするためには、テレビのリーチの強さは欠かせないとは思います。

ジャスミン革命に関しては、岡本行夫さんが、「革命の輸出に必要な要素は、貧富の格差、若年層の多さ、高度な教育、インターネットの普及、自由度の高さ」と言ってました。説得力あると思います。はたして日本で、ネット解禁選挙だけで態勢がひっくり返るか。それ程のエネルギーはないのではないかな。

年次レポートは、実は(刺激的なので)結論めいたところまでは言及してません。セミナーでどこまで言うか、悩んでるところです。

でも、あやぶろ会受けての、メールのやり取り、面白いなぁ。ブログのエントリーにしたいなぁ・・・などと考えております。

氏家


■2011年7月26日22:09(河尻)
みなさま、
お世話になります。
河尻です。いい議論になってきましたね。僕の意見も補足させていただきます。

>志村さん
>セミナーですが、いっそのこと、志村さんパートは志村さん自身が話す
>というのはどうですか?
僕も差し支えないようでしたら、お話してみたいです。

>それから志村さんのメールにあった
>>自分は、マスメディアの情報伝達、編集能力はソーシャルメディアに
>>置換されると思います。
>これがどうも具体的にイメージしにくくて。そのうち教えてください。
ここに関しては、僕は氏家さんの疑問も志村さんの主張もわかる、という中途半端なポジションです。

あやぶろの原稿でも毎回書いているように、僕はソーシャルには期待しているのですが、編集能力という意味では、プロの仕事や役割というものがある気がします。それ抜きでは、豊かなカルチャーは成立しないと思うのです。
歴史に鑑みて、純粋な意味でのコミューン(言わばソーシャル)は短期間で崩壊に向かいます。簡単に言えば「理想だけでは人は食えない」ということかもしれませんが、安定的な制度を構築するためには、そこに物語性を付与し、時間軸の中でデザインする必要があるのです。宗教や国家、マスメディアといったものが従来はこの役割を担いました。現在の各プラットフォームにもそういったデザイン思考はビルトインされていますが、それはいわゆる“民主主義”みたいなもので、いつまで有効にワークするかは未知数です。
その意味で、このあいだのあやぶろ会でも話に出たカストロはうまかった、物語を作ることでプロの仕事をしたな、というのが僕の見解です(いまどき“こういう話”で盛り上がるあやぶろが僕は好きです)。ゆえにガルシア・マルケス(文学)も機能したというアイロニカルな構造があるのでは?物語に別の物語をぶつけて「王様は裸だ」をあぶりだす。そういったジャーナリスティックな手法が機能しました。南米(キューバ)独特のカルチャーがそれを後押ししたとも思います。メインとサブの“物語”の関係性を透視しやすいわけです。この“エキゾチック”が物語として流通するのが、20世紀であり、グローバリズム以前の世界だったと思います。実は僕のジャーナリズムの師匠はマルケスです。

>河尻さんが言ったのは、広告のメインストリームがTVじゃない、というより
>広告の概念が変わってしまっているのが前提としてあり、表現の手段として
>テレビ以外の比重が増している、という意味かなと思ったのですが。
>認知度を上げる、それによりマネタイズするためには、テレビのリーチの
>強さは欠かせないとは思います。
これに関しては、氏家さんのおっしゃる通りです。広告の概念はこの10年で飛躍的に変わりつつあり、その中での相対化されたテレビの使い方というものがあります(そのあたりは、また詳しく書いてみたいと思います)。加えてカンヌは実験的かつ野心的なクリエイティブの実験の場でもありますから、どうしても目新しいものに注目が集まる傾向はあります。

しかし、テレビが得意とする認知に関しては、企業コミュニケーションに占める15パーセントの役割しか果たしていないということがカンヌセミナーではいまや公然と言われており(それは成熟した消費社会においては、かつてほどbuyへの決め手にはならない)、ナイキなどはそういった考えに基づいて、この10年間でテレビの出稿量を55パーセントカットしました。物語の作り方が変わってきています。

これは極端な例かもしれず、商品にもよるのですが(現在もテレビで売れる商品も数多くあります)、多くのグローバルカンパニーが、ナイキ的動きを取りつつあるのも事実です。今後は残りの45パーセントをどうするか? というアングルもいっそう重要になると思いますが、いずれにせよgolden ageはもう訪れないという前提で考えたほうが、このレースに勝ち残りやすいということは言うまでもないでしょう。ビジネスとしてこれをどう取りにいくか? というリアルな課題です。パイは限られているということを直視するほかありません。僕の言葉でいう"クリエイティブ"に携わるすべての人々の課題です。

それはビジネス的な側面です。論点はもうひとつあります。テレビがこれまで担保してきたマスカルチャーをどうするか? という問題も僕は重視しています。なぜなら、現状のウェブは良くも悪くも大きな幻想を生み出すことに長けておらず、共同性の高い物語は流通しづらくなっています。物語のあり方が違うというだけでもあるのですが、気になるところがないわけでもありません。今後は祭りをだれが担うのか? という話です。

これに対して僕は、たとえば“googleという国”という概念を導入して説明、打開しようとしています。そこには新しい物語への可能性がある。テレビから発信された津波の映像の世界に与えた衝撃を情報空間の中で回収しようとしたのは、google的な場だったと思います。中国がなぜgoogleを嫌うかもそう考えると腑に落ちます。ある意味、競合する可能性があるからです。よく言われる自由な言論以上に深い問題がここにはある気がします。googleの思想はリアルな社会制度に転換しうるのです。

が、世代のせいか、やはり紅白歌合戦的世界への郷愁もあり(子供のころは毎週ドリフも見てましたし。。)、なんとも言えない部分もありますね。しかし、昨今のカンヌの人気ムービーのyoutubeビュー数を見ていると、余裕で1000万を超えたりもしていて、意外とウェブはこのラインを越えてくるフェーズに入っているのでは? という気もするのです。これは数年前には考えられないことでした。

なによりも一番大事なのは、「人は物語なくして生きられない」ということだと思います。「ものみな歌で終わる」と言いますが、本当は「ものはもので終わり」ます。しかし、人は「歌」つまり「語り」で終わってほしいと願っている。個人差もあるのでひと括りにはできませんが、時代が変われば「語り方」の作法(トレンド)や規模が変わるのは当然で、その一方で変わらないものもあり、そこにフィットするものを、自覚的かつ本能的に、ある種の倫理観とビジョンを持ってニュートラルな視点から探すこと、つくり出すことが仕事だと僕自身は考えています。僕にとっての「編集」とか「ジャーナリズム」とか「広告」は、その実践の場です。


■2011年7月27日15:31(氏家)
河尻さん
セミナーの件、了解です。教育研修部と相談しないとなりませんが。
河尻さんのメールの
>それはある側面です。テレビがこれまで担保してきたマスカルチャーを
>どうするか? という問題も僕は重視しています。なぜなら、現状のウェブは
>良くも悪くも大きな幻想を生み出すことに長けておらず、
>共同性の高い物語は流通しづらくなっています。
>少なくとも僕にとってはそうです。今後は祭りをだれが担うのか?
> という話です。
・・・・に関して、僕もそんな気がしてたんですよね。ただ最近のgoogleは企業としての行動が目立つようになってることが、ちょっと興ざめの部分もあるんですが。

氏家

************************************************************

つづく・・・
(続きは順次UPしていきます)



この記事へのコメント
印は入力必須項目です。
名前
コメント
画像認証 :

表示されている数字を半角で入力してください。