[コミュニケーションには<マス>と<ソーシャル>と<リアル=身体的>がある…「あやブロ会」の後で]前川英樹

前川です。
河尻さんの言うように、「あやブロ会」のリアルな議論をフォローした「ありがとうございました」メールでは、なかなか良い議論が進行している感じがします。それも、単線ではなくて複々線くらいでしょうか。いろんな形のあやが取れそうです。箒だと思ってとったのに、ヒコーキだったりして。
・・・で、まとめたあや取りは別にして、ここまで思ったことをノートしておきます。

1.志村さんのブログ(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/16299)「スマートテレビが切り離すテレビの時間性」について、「政治的公平の意味と無意味につながる」と書いたことへの補足。
権力は時間を監理しようとするが、完全な時間監理は出来ないため(当たり前だ)、メディア規制の仕掛けの一つとして「政治的公平性」を規定する。一方、現行放送法の趣旨として、「放送が民主主義に資する」ために、「多様性・多元性」を規律原理としている。実は、この二つは相反する、つまり多様性・多元性による選択肢の広がりが、結果として「公平性」という規制を無意味化する。マスメディアである放送においてさえそうなのだから、ソーシャルメディアの多様性・多元性は比較しようもないほど正に”多様”である。ここから、ソーシャルメディアが高度に発達するほど、放送における「“政治的公平性”という規制は排除されるべきだ」、という主張が明確にされるて然るべき・・・ということです。
中国の高速鉄道の事故について、中国メディアが-CCTV(中央テレビ)までも-が、当局を取り囲んで取材するという今まで見たこともない光景が出現し、当局批判のニュースが報道されるというのも、中国社会におけるソーシャルメディアの浸透がバックグラウンドにあるからでしょう。

2.添付のpptは何処かで既に紹介したかもしれませんが、テレビの構造についての「概念図です。「政治的公平性」の意味/無意味も、この構造との関係も含め、踏み込んだ議論が必要でしょう。

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3.「情報伝達、編集能力」の問題は、メディア=媒体の違いの問題ではなく、”職業”の問題でしょう。少なくとも、現在のところ<情報収集=編集=伝達>というサイクルが職業として成立しているのはマスであり、ソーシャルではそれは容易ではない。では、将来このサイクルがソーシャルでも成立する可能性はないのかといえば、それは情報市場がどのように形成されるかによると思います。あるいは、こうしたサイクルを前提とした職業の在り方がマス型であり、ソーシャルにおいてはもっと違った形(それがどういうのかは分かりませんが、)が登場するかもしれません。例えば、現在のノンフィクションライターや、フリーのドキュメンタリストがソーシャルを「場」とするようなことが起こるのかもしれません。

4.この<情報収集=編集=伝達>の問題は、調査報道の在り方につながります。テレビがポテンシャルに持っているライブ性(の一部?)という機能は、ソーシャルメディアに代替あるいは置換されつつあると考えることは出来るでしょう。そうだとすれば、<情報収集=編集=伝達>が職業として成立しているマスメディアに出来ること、あるいはそれをやることで視聴者との間にコミュニケーションが成立可能な方法は「調査報道」でしょう。ここでも、(以前述べたように)コンテンツはメディアを選ぶのです。

5.もう一つは「物語り」の話ですね。
ポストモダンのテーマは「大きな物語の喪失」だと言われてきました。モダン=近代とは、前近代からの構造転換であり、それは即ち革命を前提に成立した社会だったといえるでしょう。そして、革命とは典型的な大きな物語だった。
その最後の物語が(リアルあやブロ会で話題になった)キューバ革命であり、あるいはベトナム解放だったのでしょう。それにしてもどうしてキューバ革命が「あやブロ会」で話題になったんだっけ?・・・ね、木原さん。どちらも夢や希望と同義語として人々に語られたはずです。しかし、ベルリンの壁解体、冷戦構造の消滅によって、そうした物語性への期待感そのものが成立しなくなってしまった。もちろん、既にソ連型社会主義の信用度はゼロに近くなっていましたが、この場合の「革命性」とは、近代が成立する政治的モメントとしてフランス革命やアメリカ独立戦争に遡ります。ついでに言えば、ソ連邦消滅と東欧革命といった現象を、「歴史の終わり」(西側=資本主義の勝利)と語った人たちもいたことはご存知でしょう。
では、革命という大きな物語はこの世から消えてしまったのかといえば、21世紀の現在、世界史的不安定状況は拡大し、革命が起こっても不思議ではない時代に入ったとも言えそうです(ジャスミン革命は革命でしょうか?)。ただ、モダンが「不遜にも」人間の進歩を礼賛し、思わず夢と希望の時代として自分たちの時代を語ってしまったような、そんな物語は21世紀には成立しにくいように思うのです。革命の夢や希望は、革命が権力維持の力学に曝された途端に捨てられてしまう、例えばスターリン主義や文化大革命のように。それを私たちは知ってしまったのです。アナーキズムという、現実としては成立しない思想が、生き続ける秘密もここにあるように思います・・・アッ、これは余談・・・というより、この項は全体に少しズレたかも知れない。

6.マスカルチャーの祝祭性、というのは良いな。それを誰が担うのか。バーチャルという文化が祝祭性を継承できるのか。そもそも、そのような物語性=祝祭性の喪失が21世紀的というべきなのか。いや、やっぱり競技場のリアル(あるいはアウラ)はオリジナルの根拠なので、だからこそその一回性を伝える(表現する)メディアが必要なのだ、などなど。
つまり、「中っ位の物語」はまだまだ成立するし、人はそれを求めているということでしょうかね。

7.<3.11.>の後私たちはどんな物語を語れるのでしょうか。今朝(7.28.)の朝日新聞・論壇で森達也さんが、日常に戻りかけている自分への不安、について書いています。簡単に日常に解消できない3.11.の意味と、日常に帰りたがっている自分という関係は、直接被災したかどうかとは別に、私たちにとって「アレは何だったのか」と考える時に、必ず直面する問題なのだと思います。にもかかわらず、人は日常に帰るえことで救われる、というのも否定できないとも思うのです。
どのような自然災害もあるいは歴史的経験(例えば、明治維新・原爆・敗戦)も、その日常とのせめぎあいの中で<新たな意味>が見出されるのでしょう。ただ、「一億総懺悔」などと言って昭和20年の意味を見つけ損なった日本人が、果たして<3.11.>の意味を見つけられるかどうか、些か心配です。

「人間に“未来”などない。あるのは“希望”だけだ・・・。」(イバン・イリイッチ)と、いま私たちは言えるでしょうか。


前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは“蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいから NHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。



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