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[夏の終わりに-震災と原発を巡る“知的”考察と発言、ついでにメディアのことも-]前川英樹

やっと何が問題なのか、何が議論されるべきかが、おぼろげながら見えてきたようだ。もちろん、それがまともに議論され、それによって私たちの選択が具体的になるとは限らない。議論は、常に議論のままで、せいぜいのところ、それが記録されるという程度ことで過ぎてしまうことの危うさと隣り合わせにいる。
それにしても、津波と原発の本が平積みになっている書店の景色に立ち往生していたが、その中から、確かにやっと何が見えてきたように思える。

チョット集中的に買って読んでみたのはこんな本だ。
「思想としての3・11」(佐々木中、鶴見俊輔、吉本隆明、加藤典洋、他・河出書房新社編集部編)、「大津波と原発」(内田樹×中沢新一×平川克己 朝日新聞出版)、「日本の大転換」(中沢新一)。「津波と原発」(佐野眞一 講談社)はこれから。ついでに、震災・原発とは直接関係ないが、長崎浩「反乱の60年代」、内田樹「最終講義」まで買ってしまった。関連して、「核生んだ人類“滅びのうた”」(過去からの予言1―小説『霊長類 南へ』―」の筒井康隆の発言・8/22.朝日)は流石筒井康隆、面白かった。
こう並べてみると、趣味的のような、そうでないような…。

これらを読んでみて、そこから大震災後の、あるいは原発事故後のリアルな選択肢が見えるかといえば、そういうことではない。ただ、「この事態」をどう考えるか、考え抜くことなしには何も見えず、いま私たちが経験していることの意味も分からないということを、著者たちの多くは言っている。つまり、状況を政策的にではなく、またイデオロギー的でも、感情的にでもなく、まさに思想的に見ることこそ根本なのだ、ということだ。乱暴に括れば、いま私たちがいる地点について、戦後体験を引き合いに出しつつ「頑張れば日本復活は可能だ」というようなレベルにないという認識、つまり「元に戻る」という発想そのものの限界が語られている。

中沢「…日本の近代史がボキッと折れたんだと思います」
平川「なにかが折れてしまった?」
中沢「太平洋戦争の敗北でも折れなかった『なにか』が、今度こそはボキッとくじけて…」

佐々木中は「砕かれた大地に、一つの場処を」で、クライストという作家の「チリの地震」という短編で、「グルント(大地、根拠)の崩壊による法と秩序そして同一性の瓦壊、による肯定的な共同性と否定的な暴力の同時出現の可能性」が描かれていることを手掛かりに、「震災以前と震災以後の自分が同一人物かどうかが信じられなくなるわけです。記憶が、歴史がなくなる。」と語り、その上で「自分が自分であることは、自分の歴史を、自分の物語を語ることによって保証されます。自分がどこでどうやって育ってこういう苦難を乗り越えて今ここにいるという、自分の歴史を語ることによって、自分のアイデンティティは成立します。震災は、それを破壊します。」という。
被災者は、津波がさらっていったアルバムを何故探すのか。それは流行り言葉になってしまった「絆」というような問題ではない、ということだ。個人的なことだが、私自身は少年時代から今に至るまで、アイデンティティを確かめることに、意識としての人生の大半が費やされたという思いがある。だから、佐々木中のいうことは、まことにその通りだと思うのだ。
こうした「文学的」考察は、避難生活の救済や街の復興や復旧に、そして役立つかといえばそうではなかろう。だが、そのように見、考え、書き記すことも、その時代、その状況における人の行為なのである。

もう一つ、著者たちの間でも分かれるところだが、例えば、中沢新一は、(前川風に要約すれば)資本主義と原発とはどちらも「生態圏」の外のものを無媒介にその内側に取り込むことにより成立しているのであって、それは人間社会の多様な構成要因の中の特殊な要素(交換経済と核)だけが肥大化した状態だという(「大津波と原発」「日本の大転換」)。こういう見方を、加藤典洋は「人文的知とは何とナルシスティックなのか」と批判しているが、どちらの見方に立つかはともかく、思想的論点の一つであることに変わりはない。筒井康隆の認識は中沢新一と軌を一にしつつ、もっと過激だ。「このふたつ(資本主義と原発)は車の両輪ですからね。こんな巨大な自走するシステムは、動き始めると止められないんです。」とくる。中沢新一の方は、もう少しポジティブで、「エネルネゴロジ―(エネルギーの存在論)」の構造転換によるモダニズムの真の乗り越えという、「大きな転換は、日本でこそ起こらなければならない」として、そのために「緑の党」のようなものを作ろうと提案している(前掲書)。
一方、加藤典洋は「大事なのはメディアですね」といい、「メディア的に遺棄されそうな市民、住民の集団がいたら、公共のメディアは、彼らの側に立つべきだ」と指摘する。今回発言している人たちは知的緊張感を持って発言しているのだが(というか、そういう人々の発言を著作にしているのだ)、その彼らはすべからくマスメディアに批判的か、批判の対象にもならないという立場に立っているといえるだろう。

「大津波と原発」は、Ustreamに配信された「ラジオデイズ」という番組で行われた、
内田樹×中沢新一×平川克己の鼎談である。それほど、難しいことを、あるいはそれほど過激なことを語っているわけではない。それでも、この鼎談を企画した平川克己は、端っからマスコミ(BS、CSも含めて)は視野に入っていなかっただろう。彼らの知的緊張感が個人的なものにとどまるはずもなく、やはり何らかの形で「人々=庶民・大衆・生活者・国民・市民、などなど」と接点がなければ意味がないのであるが、その接点は既にマスメディアはないのである。なにも、そのまま座談を中継しろとはいわないが、こっち(メディア)側において発想さえされないとすれば悲しい。彼らの名前さえ知らないのではないだろうか。
ここにマスメディアの空虚あるいは頽廃を見るのは不当ではなかろう…残念ながら。


前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは“蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいから NHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。



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