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「異質であることの大切さ」 -日韓中テレビ制作者フォーラムの面白さと重たさ-(1) 前川英樹

9.22.~25まで、「日韓中テレビ制作者フォーラムin札幌」が北海道大学学術交流会館で開催された。このフォーラムは今年で11年目を迎えた。今年のテーマは「地域と暮らし」だったが、“3.11”後の状況を踏まえ<緊急フォーラム>「震災 テレビはどう伝えたか」も企画されていた。

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韓国、中国から夫々20人、日本は60人、それに地元関係者など合わせる150人ほどが参加したのではないだろうか。日本側の中心組織は「放送人の会」で、私もそのメンバーとして参加した。初参加の私にとって、ともかく連日面白かった。毎年こんなに面白かったのだろうか。上映された韓国、中国の番組は夫々に興味深かったし、日本の番組も観ていないものが多く、新鮮だった。
上映作品の詳細や議論の概要などは別途まとめられるのではないかと思うが、個人的な感想や興味深い論点など<私的総括>を試みておこう。先回りしていってしまえば、「面白かった」といま言ったが、残されたものは結構重たいということも確かなのである。


(1)韓国KBS「震災100日 揺れる日本」は日本で放送されるべきだ
KBS東京特派員の金(キム ヒョンソク)氏は優れた知性の持ち主だ、と率直に思った。
震災100日の状況を韓国人ジャーナリストがどう捉えたか、まことに興味深く番組を見た。この時点で、日本のメディアは初発の衝撃的状況への対応から、多角的な情報発信へとシフトした時期だろう。特番型から日常型(ワイドショー型)への移行、あるいは「絆」や「寄り添う」という言葉に見られるように、情緒への傾斜の定着と言っても良い。
その時、金氏は「今、自分は=人々は、何を知りたいのか」、つまり<誰に何を問うべきか>という、インタビューの基本の大切さを教えてくれた。被災者への取材もそうした目線に支えられている。また、福島第一原発の事故現場に、<個人として>立ち入った原子力安全委員会の青山教授の映像も取り込んでいる。この映像はネットには流れたであろうが、メディアでは放送されていない筈だ。

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原子力利用推進の大御所、中曽根元総理にもインタビューしている。さらに、いま日本の近代を語る時に外せない姜尚中氏にも向き合っている。そうしたときの彼の<立ち位置>は、映像の中で見られるように非常に穏やかで静かである。その中から、金氏は「日本型マニュアル社会の破綻」という一つの命題を差し出してみせる。
日本のメディアが、一方では情報氾濫状況であり、他方では官許情報依存で「知りたいこと=知る権利」に応えていない中で、この「外国人記者」は、私たちが埋没させてしまっている目線を思い起こさせてくれる。優れた知性の持ち主という所以である。番組制作は知的作業なのだ。
3日間のフォーラムを通して、「ジャーナリズムの普遍性と文化の異質性」が常に意識されていて、それはテーマとしてその通りであるものの、ジャーリズムも文化であるという意味で、それが異質であっても不思議はない。異質であるが故に、相互に発見がある。そのことも、「震災100日 揺れる日本」は語っていたように思われた。
この「震災100日 揺れる日本」は、日本で放送されると良い。
韓国からは、他に、韓国で生きて行こうとするベトナム人母子をとおして<多文化>をテーマにしたドラマ「向かい合って笑おう」、ゴルフ場開発で村が二分される状況を取材したドキュメンタリー「私の故郷」が参加作品だった。

(2)金平キャスターと中国メディアのすれ違い…論点になり損なった論点
xFc3c7Kpwr.jpgシンポジゥム「震災 テレビはどう伝えたか」における夫々のパネリストの発言を、ここで個別に紹介するのは無理なので、特に興味深かった論点(論点になり損なった論点)について書いこう。
金平キャスターは、第1ラウンドで「3.11は日本の歴史の切断点」だという認識をベースにし、これほど多くの人々が映像として記録した災害というのは初めてだと指摘した。その上で、「報道特集」で取り上げた東北放送(TBC)の武田記者の津波体験を通して、「記者の倫理と放送の公共性とは何か」という問題を提起した。

また、日本のメディアは戦前戦中の経験から戦後ジャーナリズムを築いてきたのに、今、特に福島の原発事故報道では、メディアは政府機関の発表情報依存に戻ってしまっている。あらためて、「報道機関と国の関係」を問うべきだとも発言した。まことに、もっともな発言だったと私は思う。しかし、こうした提起が深められないままに議論が進行し、韓国そして中国のドキュメンタリーに話題が及んだ第2ラウンドで、金平君は「中国のドキュメンタリーに違和感を覚える」という発言した。これは、一連の金平発言の中で、中国メディアと政府や党との関係に触れた部分があって、私はそれとの関係を指すものとして理解した。
では、中国<的>ドキュメンタリーとはどのようなものだったのか。

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中国は3本のドキュメンタリーを発表した。四川大地震の後の復興を母子の会話を通して描いた「家園(ふるさと)」、同じテーマをパンダの飼育に投影した「新家(新しい家)」(どちらも、四川電視台)、少数民族イ族の村、暑立里がバスケットボールで活性化する様子を10年にわたって取材した「暑立里(中国に暑立里あり)」(深圳市文芸創作室主任・同電影電視協会副主任 李業威氏監督)である。
c8iFQgtLjT.jpg私もこれらの作品を見ながら「これは、国家的・党的"再現"ではないか」という、金平的違和感を覚えた。社会主義下のメディアは大変だな、とも。それは、例えば、四川大地震後の復興を<エコロジー村として建設する理想主義の母と、それを批判する娘の厳しい会話>といっても、<この状況では、このテーマで、こういう会話をする>と設定しなければあり得ない描写だし、そのような演出がどの作品にも一貫して見られたからである。これは、ドキュメンタリーだろうか。
だが、見終わった後の討議や、その日の夜の「放送人の会」のメンバーの会話を聞いて、待てよ、とも思った。というのは、一つは見ながら薄々感じていたことなのだが、それでも彼らはジャーナリストであり、表現者だとすれば、何処かに込められたメッセージを嗅ぎ取るのはこちらの作業だということであり、もう一つは、そうであればそのようなドキュメンタリーもありうるのではないか、ということだった。

そこで問題はこうなる。
金平君が「中国のドキュメンタリーに違和感を覚える」といった感性は全くそのとおりだが、その感性で推し量れない制作の場というものがある(・・・らしい)。とすれば、金平的問題提起「報道と国家の関係」は、社会主義圏のドキュメンタリーの問題として限定するのではなく、彼自身が最初に言及した、今の日本のメディアの「政府機関発表情報への擦り寄り」との関係も含めて議論されるべきだったであろう。ただし、このフォーラムがそれに相応しかったかどうかは別である。
中国側の対応組織である中国テレビ芸術家協会の幹部が、パネリストの発言とは関わりなく「補足します」といって語ったのは、金平発言へのコメントではなく、中国側の作品がいかに時宜を得た企画かということであり、「金平さんも一度中国に来て議論しましょう」ということだった。そりゃそうだ、彼はおそらく中国共産党の中堅幹部だろうから、まともに<メディアと政治>という議論に入るとは思えない。それに、彼らだって真実の追求こそ大切だ、くらいのことはいうのである。

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ところで、このシンポジゥムの途中で、福島から北海道に疎開している宍戸さんが、求められてフロアーから発言した。「福島のネット普及率は50%。その二つの<50%>の間で避難対応が分かれとしまった。テレビ・新聞がもっと警鐘を鳴らしてくれたら、より多くの人が避難しただろう。不安やパニックを恐れて事実を伝えないのはおかしい」と。これも、金平君の提起につながる発言だったが、<発言した>ということだけで>議論が広がらずに終わってしまった。

尚、<再現>という方法については、韓国の制作者からも、そしてそのことと「やらせ」の関係については日本の参加者から、上映番組についての質疑あるいは総括の場でも発言があった。
(中国からは、他に、野鴨子(カモ)と呼ばれる田舎娘が実は富豪の娘だったという、貴種流離譚というかシンデレラ・ストーリーの現代版(結末は、富豪にならずに田舎に戻るのだそうだが)のドラマ「野鴨子」が参加した。)

以下、次回

"せんぱい"前川英樹



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