まず最初に向かったのは仙台空港だった。国際線の一部(北京便)を除いて全便が運行されており、ターミナルビル内の賑わいぶりは、これが津波が押し寄せ泥まみれになったあの空港とは思えない。福岡行きや札幌行きの登場案内が流れ経済拠点の機能が復活していることがうかがい知れる。
屋上の展望テラスに上がる。東西南北にテラスから見える風景写真が貼り付けられている。震災まえのものだ。昼過ぎとはいえ氷雨で空は暗いなか東側、海岸方向に眼を凝らすとあるべきはずの松林や民家がごっそりと消えていることが分かってきた。被災当日から翌朝にかけて空港ビルに取り残された人、避難した人たちは、どんな思いでここからの光景を見ていただろうか、胸が痛む。
(写真1 仙台空港屋上から海岸方面を望む)
翌日から三陸海岸を北上した。北上といってもすんなりと海岸線に沿って行ったわけではない。リアス海岸沿いの宿の多くが被災したままであること、海沿いの道路の細かい情報が東京では入手しにくかったこともあって、われわれ一行は、内陸部に戻っては沿岸部に出る「コ」の字型の移動を余儀なくさせられたが、行程を終えてみると被災地の都市の成り立ちや経済的な導線が実感できたように思う。またほんの少し沿岸部に出ただけで被害が格段に大きくなる地勢的な変化も体感できた。
実際、津波の被害の大きかった海沿いの街は、基幹交通が貫く内陸部の拠点都市とそれぞれ別々に結びついている。気仙沼や陸前高田、大船渡は一関、釜石は北上や花巻、宮古以北は盛岡といった具合である。ちなみに気仙沼は宮城県でそのほかの街は岩手県。
JNN三陸臨時支局の龍崎支局長は「気仙沼に住んでいる人たちは宮城県人という意識は薄いですよ」と言っていた。こんな街の成り立ちや導線が、初期の情報の伝達に影響があったのではないだろうか。またインフラの復興面で見ると、一関と大船渡を結ぶJR大船渡線は気仙沼までは開通したものの沿岸部が復旧するのは防災の街づくり計画が策定された後らしい。そんななか11月3日から第3セクター三陸鉄道の復旧工事が始まったそうだ。それでも全線開通は2014年になるという。
利用者は仙台近郊に比べ圧倒的に少ないかもしれないが、鉄路が繋がるという安心感は大きいはず。行ってみようと思う人の後押しになるだろう。志村ポストで紹介していた「復興屋台村 気仙沼横丁」、そのお好み焼き屋で隣り合わせになった青年は首都圏から被災地を見るためひとりで新幹線から大船渡線に乗り継いで気仙沼駅までやってきたらしい。
(写真2 大船渡駅の放置されたホームとレール)
東京に戻ってからJNN三陸支局のFaceBookを開いてみたら、ある日の日記を龍崎支局長はこんなふうに締めていた。
「がんばれ日本」という標語はもうやめたほうがいいかな。「無理をしない、楽をしない、あてに しない」という言葉がよみがえって来ました。
この一節がたまたま帰りの新幹線のなかで、読み終えた『花森安治の青春』(白水社)と重なる。馬場マコトの手になるこの本は、「暮らしの手帖」を創った花森が戦時中にたずさわった仕事について予断なく記したもの。花森は大政翼賛会で戦意を高揚させる標語を選定したりポスターをデザインしてきたが、生前これらの仕事について語ることはなかった。
個人的な感想だが封印してきたというより、花森は標語のない社会をめざそうとしたような気がする。戦後しばらくは標語のない時代だったのではないか。それぞれがそれぞれのやり方で真摯に生きようとしたから復興できたのではないか。そんなふうに思えてきた。
木原毅(きはらたけし)プロフィール
1978年早稲田大学文学部卒業後TBS入社。ふりだしはテレビ営業局CM部。その後約20年ラジオのさまざまな現場生活を経て、2000年頃からインターネット・モバイルの部局へ。07年よりTBSディグネット代表取締役社長。