分析的と創造的、外科的と漢方的・・・「調査情報」 “テレビ・ドック―いまなにが可能か”を読んで思うこと  前川英樹

TBS「調査情報」No504(2012 1-2号)は面白かった。どの記事も出来栄えというより、個性が良くでていて良かった。
前回の「あやブロ」で河尻さんポストを巡る5つの質問を提起したが、河尻さんは同号の「テレビCMの現在~お前はすでに死んでいる?」で既にいくつかの答えを書いてしまっている・・・と、メールに書いたら、別の書き方で答案作成中と返信が来た。楽しみにしている。
とりあえず、今回の河尻CM論の中で、秘かに(と、書いてしまえば秘かにではないのだが)にんまりしたのは、「『万国のユーザーよ、ゆるくつながれ』。そこにインターフェイス時代の身体感覚とリアリティーがある」と挑発していることだ。僕のように20世紀にドップリつかっている感覚だと、インターフェイスをインターナショナルと読み違えそうだった・・・ハハハ、冗談。
もう一つは、最後を「もはや失うものはなにもない」と結んでいて、それは「ベクトルが徐々に見え始めている」という自信か、開き直りか、はたまた大いなる楽観か。ベンヤミンの「複製時代の芸術作品」に思い至ったところから、パロディーとして20世紀を語っているようにも思える。彼は、僕が知っている中堅・若手のメディア研究、批評に関わる人たちで、メディアを思想として、つまり[論×行為]として語れる数少ない人だと思う。もちろん、僕の知らない人たちは沢山いるから、ここまで。

今野勉さんの「グーテンベルク以来のメディア革命の中で」は、論そのものより今野さんがどういうメディア行為を重ねているかを知ることが出来て、それが刺戟的で面白い。結局、今野さんは現場の人なんだ。それを踏まえつつ、近代メディアを印刷系(1:n)と電話系(1:1)という二つの系統で切り分け、テレビは印刷系の延長だというのは、マスメディアとしては当たり前のことなのだが、しばしばテレビと電話を電子メディアとして括られ、そこからいわゆる「融合論」が語られて来たことへの、さりげない批判になっている。
問題は、活字であれ、放送であれ、近代のマスメディアがベネディクト・アンダーソンのいう「均質な時間」(放送の場合は、特に「共時性」による)を構成することで近代国家における<国民>を生成してきたこと、そしていま電話系(1:1)の発展であるインターネットによって、人々が時間の異質性=多様性を取り戻すかどうかという局面に来ていること、その構造あるいは関係性にさらに私たちは踏み込むべきだということであろう。世界の各都市で起こっている“叛乱”から目が離せないのは、フェイス・ブックなどのネットワークの存在と不可分だからなのである。
今野さんが、新たなテレビマンを育てるキーワードとして挙げる「大衆論」「表現論」「組織論」も、実はこういう文脈で語られるべきではないか。それは「今野さんが」ではなく、私たちが、つまりテレビを思想として考える者が、という意味である。
かくして、「テレビは時間である」という卓見についていえることは、今野テレビ論も、また前に触れた重延テレビ論も、あるいは僕が時折書き散らすテレビ論的なものも、結局のところこの一言にどう向き会うかなのである。その上で、「ケータイになくてテレビに有るもの、それはクリエイティビティー(創造性)である」といえるかどうか。ほとんど同感しつつ、しかし、実はここを「テレビが失いつつあって、ケイタイが獲得しつつあるもの」と読み替えることで、テレビが失いつつあるクリエイティビティーとは何かを考えなければならないのではないだろうか、とも思うのだ(河尻CM論は、ほぼそう言っている)。そこからテレビの可能性を問いなおすところにまで状況は来ているように見えるのだ。テレビ番組制作者たちのクリエイティビティーとテレビジョンの本質である時間性の問題は、「お前はただの現在にすぎない」のレベルを超えていないのである。あれから、テレビは「論」についてサボりっぱなしだったのだ。

同じ「調査情報」の橋元良明さんの「テレビとネットのカニバリズムは本当か?」(タイトルは過激だが)を読んで思うのは、橋元さんの調査研究や、FBで稲井さんが取り出してくれた電通、博報堂、アスキー総研の三つのレポート(もちろん夫々独立したもの)に共通している「分析的」視点と、重延・今野的(と、これも共通には括れないのだが)の「創造的」視点がかみ合わない。これは、今に始まったことではないのだけれど、逆に双方(テレビ的・ネット的)が接近する局面が増えた分だけそれが目立つ。ここを書くのが、テレビ論の次のテーマだ。その意味で、「あやブロ」は結構良いポジションにいるように思うのだ。

「調査情報」には、他にも読みごたえのある記事が幾つもある。
例えば、吉川潮さんの「ニュースに二時間も必要か」は、夕方の時間を楽しく過ごせない不幸を語ってくれて、まことに同感だった。ついでに、NHKがニュース枠で「大河ドラマ」の番宣をやるのは、どこがニュースだ、とひとこと言って欲しかった。
また、堀川とんこうさんのドラマ論も、金平君の「御用ジャーナリスト」論も、龍崎君の「三陸彷徨」も、石塚君の時事放談を巡る議論も、みなそれぞれに力のある意欲的な論考で、特に現役諸子にこれだけの知力がある人たちがいるのにどうしてテレビは面白くないのかと思ってしまったのだった。
・・・というわけで、「あやブロ」を読んだ方は、何とかTBS「調査情報」最新号に眼を通して頂きたい(氏家管理人、市川編集長にお願いしませんか)。

と、書いてきたのだか、そこにはドック入りしたテレビへの診断が書いてない。
しかし、どう読んでも判定は<要治療>だ。それも、緊急な措置が必要だろう。本当は漢方的に、時間をかけて体質改善に努めるのが一番いいと思うが、とてもそんな余裕はなさそうだ。この際、とりあえず外科的処置をするしかないだろう。それは、テレビ局への外科的処置で、それをしないと、まだ体力のあるメディアとしてのテレビまで衰退させてしまうことになる。
テレビ局の役員という立場に立ったことのある身で、そう言っていいのかという思いはもちろんある。が、やはりそう言っていいのだ。わが身のことに思いを至らせつつ、それでもそういうのが僕の“仕事”だと思うのだ。



前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社 <アラコキ(古希)>です。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポストアナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。キーワードは“蹴手繰り(ケダグリ)でも出足払いでもいいから NHKに勝とう!”。誰もやってないことが色々出来て面白かった。でも、気がつけばテレビはネットの大波の中でバタバタ。さて、どうしますかね。当面の目標、シーズンに30日スキーを滑ること。



この記事へのコメント
印は入力必須項目です。
名前
コメント
画像認証 :

表示されている数字を半角で入力してください。