ネットは嘘つかない―前川英樹さんの5つのご質問に本音でこたえる②― 河尻亨一

~①からの続き~

★回答②

英語を第2言語として公用語化したほうが早いと、英語力もないくせに個人的には考えている(弊社は今年から社内言語を2カ国語にしようとしている。英会話スクールに通うだけのことかもしれないが、やらないよりはマシかと)。

漱石に関して言うと、この文豪は西洋のロジック(と、それが生み出した“風景”)について行けず、精神に電波が入ってしまって強制帰国。漢詩、俳句の世界に安らぎを見いだした。僕の北斎願望もそれに近いメンタリティに属するものだろう。しかし、気持ちを入れ替えたあとの漱石の「日本語」は、グローバルに通じる文脈を備えていると僕は思う。たとえば「こゝろ」は、僕の読み方では「近代的関係性」を日本語に翻訳する試みで、先生の自殺は必ずしも内面的な悩みが理由ではない。

「先生・お嬢さん・K」の関係性が破綻したことにより、「先生」そのものも存在理由をうしなったという、これは一種の“怪談”なのである。不思議なのは、西洋近代の物語では一般的に、ひとつの関係が破綻(しそう)になると、すかさず別の関係が構築され、それらがダイナミックなうねりとなってドラマを盛り上げていくものだが(「カラマゾフの兄弟」はそれが異常にスリリング)、「こゝろ」においては「先生」がただ消えて(自決して)終わる。長編でないとはいえ、あまりにもミステリアスだ。「明治の精神に殉じる」という不可解な理由ひとつ残して。

「明治の精神」とは文学者にとっては近代的関係性への憧憬だったのであろうか。正岡子規や画家たちもそうだと思うが、明治の偉大なクリエイターたちは、近代の精神を翻訳するために命を削っていた。しかし、明治の終わり頃に、それは“坂の上の雲”に過ぎないと気づく。漱石はメロドラマ色の強い三部作(『三四郎』『それから』『門』)の後、「こゝろ」にトライした。

しかし、「やっぱそれ無理!」を再び悟って2年後に死ぬ。

もしかすると文学における「グローバル・プログラム」(近代文学の系譜にまっとうにつながる作品)が思うように書けず、いっそうの体調悪化を招いたのかもしれない(誤解を招かないために言うが、僕は漱石をリスペクトしている)。日本語でグローバル文学を書こうとするとバグでも出るようになっているのか?

漱石が「子供たちよ、そっちにはアクセスせんほうがいい」というブロックサインを再三送信したにも関わらず、芥川龍之介、有島武郎など果敢なチャレンジャーも続々出現したが、案の定バグが出まくって断念。その討ち死に模様を横で見ていた後発の谷崎潤一郎は、デビュー時から「大正モダニズム」という和洋両刀型クールジャパン路線に乗っかって売れっ子となるのだが、「グローバル・プログラム」をうまく回避することで、「グレート谷崎」としてドメスティック社会に末永く君臨することとなった。

しかし、いまは“漱石とその時代”ではない。テクノロジーは近代を急速に解体しつつあり、欧州もアメリカもトラディショナルセクターは気息奄々だ。「こゝろ」の「先生」がtwitterをやっていればあの物語はどうなったことだろう? ゆえに逆説的な形で「グローバル・プログラム」に対して好機が訪れている気がするのだが。

ようするに僕には、いまは文学者よりも広義の”プログラマー”のほうが魅力的に映る。日本語による表現はグローバル化しようとするとバグが出るが、プログラム言語はグローバルになりうるからである(バグも修正できる)。

一方「クールジャパン」に関しては、世界では日本人が思うほど意外とワークしていないという話もよく聞く。この目で見ていないので参考までの例となるが、ジャパンエキスポ韓流化騒動などがそれだ。どこの国にも谷崎&三島ファンがいるように、アニメ&コスプレファンはいる。

“そっち(アニメ的表現)”は表現記号としての浸透性が高い(メンドくさくなく親しみやすい)ゆえにマーケットは文学どころではなく広いわけだが、向こう側に真に通ずるムーブメントを起こせているのかどうかはわからない。だが、「グローバル・プログラム」により近く、そのとっかかりになる領域であるとは言えそうだ。

そもそも「マスな動きがどーん」みたいな発想自体がもはや違うかもしれず、その意味では小さいムーブメントを戦略的に矢継ぎ早にふにゃふにゃ発信するほうが、国力増強につながる気もする。

中東(イスタンブル)での美術展も成功させているキュレーターの長谷川祐子さんによれば、「日本はボイド(空虚)であるがために、一神教社会間の仲立ちとしてワークしやすいのでは?」ということだったが、そういった意味での“クールジャパン”は大いにあり得るだろう。その議論はメディアとネットワークの「ハブ機能」同様、世界のハブ機能としての日本という視点で興味深い。

「そのためにはやはり英語くらいできないとダメだろう」という結論を導くためにずいぶん道草してしまったものだが、もしかすると表現言語を持っている人は強いのかもしれない。プログラマーでなくとも日本語を武器としない表現者にチャンスは多いということだ。

SANAAが建築を手がけた「ロレックス・ラーニングセンター」などは、やはり“日本的”という捉え方をされており、人気があるらしい。しかしそれは生の日本ではなく、翻訳された表現言語を用いているため通用するのだと思う。

※ロレックス・ラーニングセンター:スイス連邦工科大学ローザンヌ校の図書館・情報センター。妹島和世と西沢立衛による建築ユニットSANAAが手がけた(2010年)。この施設を舞台にしたヴィム・ベンダースの3Dショートムービー「もし、建築が話せたら」などをご覧いただくとわかるが、フラットで仕切りのない波うつ構造が特長的。動画もいろいろアップされてる。http://www.youtube.com/watch?v=Dv6dya2iwtY

つまり「エキゾチック・ジャパン=クール・ジャパン」ではなく、世界の文脈を理解し、いかにアプローチするか(バナキュラーな表現を翻訳するか)で勝負が決まる。それは、カンヌ・クリエイティブ祭を見ていてもわかる。そこに関してもデジタルのもたらしたネットワーキングをツールとしてポジティブに捉えたい。

国内に向けて「呪いの言葉」をつぶやいたり、そういうのを目にして嘆いている暇があったら、日本人も含めた世界のイケてる人々(もちろん、自分の力量の及ぶ範囲)とつるみたい。これはあくまで個人的な感想だ。


★新プロフィール
河尻亨一(元「広告批評」編集長/銀河ライター主宰/東北芸工大客員教授/HAKUHODO DESIGN)

1974年生まれ、大阪市出身。早稲田大学政治経済学部卒業。雑誌「広告批評」在籍中には、広告を中心にファッションや映画、写真、漫画、ウェブ、デザイン、エコなど多様なカルチャー領域とメディア、社会事象を横断する様々な特集企画を手がけ、約700人に及ぶ世界のクリエイター、タレントにインタビューする。現在は雑誌・書籍・ウェブサイトの編集執筆から、企業の戦略立案およびコンテンツの企画・制作まで、「編集」「ジャーナリズム」「広告」の垣根を超えた活動を行う。



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