ネットは嘘つかない―前川英樹さんの5つのご質問に本音でこたえる③― 河尻亨一

~②からの続き~

★前川さんからの質問③(抜粋)

その延長に、21世紀は「遊民」による「国家の終焉の始まり」の時代であるか。そうであるならば、情報はもちろん(ということは文化も)、例えば電力のような生活・産業エネルギーの先進国による寡占状態は修正されるべきではないか。つまり、国家という単位による構成・構造の限界あるいは不合理の解体。

回答③

この質問は難しい。正直わからない。国家は構造として限界を迎えてもそうすんなりとは解体しないだろう。

まずはその生理として“アップグレード”しようとするのではないか? それは政治・経済(資本の論理)やイデオロギー(自由平等)ではなく、もっと根の深いものに依拠しているからだ。着物やスーツ、サリーetcの民族衣装を糸にほぐしたとして、それをだれが一枚の衣装に仕立てられるだろうか?

ただ、現在幅を利かせている垂直的ネットワーキングが、水平的な(あるいは水平垂直ハイブリッドな)それに健全に移行したと仮定すると、国家もその枠組みとしてユルくなって行かざるをえないのでは?(そっちの方向のほうが暮らしやすいのでは?)とも思う。「武士は食わねど高楊枝状態」は個人的に望ましいとは思わない。

「緩やかなネットワーキング的国家体」(SFによく出てくる「地球連邦」みたいなもの)がありうれば、そちらにシフトするのだろうか? どうやればそうなるのだろう? しかし、ひとつ言えることとして、それは「遊民の時代」ではないだろう。「遊民」はあくまで垂直関係社会における反語として機能するコンセプトで、広義には「ネット右翼」もそこに含まれる。

先進国によるエネルギーの寡占状態はもちろん修正されたほうがいいと思うが、これもやはり「修正されるべき」と言ったとしてその後具体的にどうすればよいのだろう? そこに対して僕には明確なアイデアがない。

そのためにはモノ社会からのさらなる脱却が不可避であることは言うまでもないが、どれくらい脱却すればよいのかのデータや工程表を持たないのだ。僕はエコ・アクティビストではない。そちらに関しても人並み程度には関心があるつもりだが、実はエネルギー問題に関して色んな意見を読んでも、信頼できるエキスパートに出会えないのである。

前置きに書いた「生活美学」(極力必要なものだけ所有・消費する)が、この問題に関わるものであることはおぼろげにわかる。この21世紀型“清貧”はある程度はエネルギー問題の改善に寄与するだろう。ただ、この方向を全国民的に押し進めたとして、こんなにエネルギー資源の乏しい貧しい国で、果たして原発をすべて止めても将来的に大丈夫なものか? 

大丈夫という人もおり、そうでないという人もおり、様々な情報&意見に接するのだが、いろいろありすぎて僕自身はその判断ができない。自由に移動はしたいので飛行機や新幹線が機能しないのは困る(本数減るとか)。まあ、足にはそこそこ自信があるので、最悪徒歩で行くがそれでは色々効率悪すぎだろう。

原発事故に関して思うのは、まず第一に「テクノロジーの運用が間違っている」ということ。劣化した垂直型ネットワーク組織が既存システムに守られ、そこ周りの“お偉いおっさんたち”がズボラをかましまくった挙げ句、クライス時における対応も誤ったためにこれはとんでもない事故となった(そこに関しては前回ポストに引用した山口栄一教授の分析は、エキスパートの言説として信頼がおけると思った)。

そして、その“おっさんたち”が現状ぽぽぽぽ~んとエエ給料をもらい、相変わらずかっ飛ばしライフを謳歌しているとの噂を耳にすると、腹立たしいというか笑えてくる。

日本の法律上それに該当しないのかもしれないが、責任の所在を明らかにし刑事罰を科したほうがよいのでは?(料金値上げはその後の話だろう)。それをやると関係者の証言が引き出せず、事故の原因究明が遅れるとの意見もあるが、そういう問題なんだろうかこれって。ふつうの企業なら逮捕者が出ておかしくない状態では? 法律の知見がないので無責任な物言い恐縮だが、感覚的に言ってホリエモンのほうが罪は軽そうに思える。法律とは不思議なものだ。

まあ、ようするに、その問題(原発事故)と原発自体の是非は切り離して考えたほうがよい(賛成にせよ反対によ)。現段階では、「シーベルト恐怖」をあおる勢力も「放射能安全ツイート垂れ流し」学者も僕にはうさんくさく思える。あまりにややこしいので、そこにリスクがある以上「試しに一度止めてみる」は選択肢のひとつとしてアリかもしれないとも思うが、もう少し学習しないとなんとも言えない。

ただ、ドキュメンタリー映画「100000年後の安全」(フィンランドの放射性廃棄物最終処分場を描く。未来永劫の安全性を確保するために、ものゴツい地下施設を建造中)を見ると、やはり結局は経済効率悪いんじゃないの? とも思える。

それとは別に、一部おっさんメディアによっていまだに連呼され続ける「経済成長」(縦型)の呪文はなんとかならないものだろうか? それしか知恵がないのだろうか? これは元旦の一部全国紙の社説におけるメイン論調でもあった。ほんとにそれが実現できるのなら特に問題ないのだが、正直、もうドラクエの魔法のほうが効くんじゃないかという気さえする。

垂直型組織に属するどういうふうに機能しているかがよくわからない“お偉いおっさんたち”に、“エエ暮らし”をさせ続けるという文脈での「成長」は、格差を助長し社会を不安定化させるのみだろう(その文脈からデザインされた「消費税アップ」も然り)。

とはいえ、自分もすでにそれなりにおっさんではあるが、それとは別次元の「水平型の成長」を模索したいものだ。その成長イメージは、スカイツリー的なものではなく、先に挙げたロレックス・ラーニングセンターに近い。

ちなみに、自分の言う「おっさん」とは年齢の話ではない。20代のおっさんも見かけるし、前川さんのようなアラ古希ヤングも存在する。嘉門達夫の歌ではないが「おっさん」にもいろんな種類がいるわけで、ひと口にそのワードではくくれないのだが、比喩として述べると「国家」ではなく「おっさん国家」がすでに限界なのでは? と感じる。つまり、“おっさん”とは組織に存在する垂直型ネットワークを無自覚に受け入れ、ただ齢を重ねる“精神のあり方”を指すのだ。

いずれにせよ、パーフェクトなフェア&シェア社会は不可能だろう。先に述べたように社会には必ず(水平的ネットワークにも)政治は存在する。前川さんの質問に戻ると、エネルギーや水資源をイーブンに分割すると世界が食って行くことは現状たぶん無理で、いずれ奪い合いになる可能性が高い。

これは組織が垂直型であれ水平型であれ「人間」というものが抱える問題で、おそらく根本的に解決されることはない。ただ、フラットなネットワーク社会のほうが、改善はやりやすいとは思う。いわゆる「エエ暮らし」の価値が下がるからだ。

★前川さんからの質問④(抜粋)

「その作業は“君”に会いに行くことから始まるだろう。パブリックはそこから再構築されうる。ソサイエティではなくコミュニティからそれを問う視座がもっといる」。全くその通りだ。
ということは、21世紀は「リアルの復権」の始まりではないか。ないしは、デジタル/アナログの問い直しというべきか。デジタルとウェッブに限界が来るというのではない。さらなるデジタル・コミュニケーションの高度化・日常化の中で、リアル・身体の意味が重要になる。「だが、個人(一ジャーナリスト)の声を届けるツールとしては、ネットワーキングサービスのほうが適していると思う」としても、である。そこを抑えないと、河尻さんの内田樹評「そのスタンスでは、世界の半分しか把握しえないであろう」の裏返しが起こってしまうのではないか。リアル×ネット(ウェッブ)×マス=全部を見るのは難しい。


★回答④

この質問はちょっと真意をはかりかねた。たとえ「マスのみ」であっても全部を見ることはできない。僕が言いたいのは「混沌とした状況において己の位置を見極める」という意味で、各自がそれを行うことによってパブリックの再構築が起こるというロジックだ。「官」ではなく「民」、「上意下達」ではなく「草の根」のパブリックである。それは自覚した人がまず始めないと始まらない。

もちろん、よく言われるようにリテラシーは重要である。しかしその一方で“超人”などどこにもいないわけで、ロジック上の言い方ではあるが、すべての人が「足場の確からしさ」を発見し続けるためには、「“君”に会いに行く」ことが重要であると言いたかった。そのことで参加のシェアが担保できる。

「リアルの復権」というよりも「リアルは出口であり入り口」というふうに解釈していただけると幸いである。僕たちはバーチャルから出られなくなりがちだから、息継ぎスポットが必要なのだ。どちらかと言えば、20世紀的リアリズムは力を失いつつあるようにも思う。

もしかしたら、僕がよく伝えるための方法として用いる「メディアとネットワーク」の2項対比型ロジックが導いた、「世界の半分」という言い方が誤解を招いているのかもしれない。

いま少し考え直してみたが、両者(メディアとネットワーク)は世界の把握の仕方自体が違う位相にあるものなのではないだろうか? それを言葉でどう言えば的確に表現できるのか、自分の脳力では難しい。

あえて言うならば「インターフェースの向こう側とこちら側をつなぐ接点にこそ21世紀のリアリズムがある」ということだろうか? 

「世界の半分しか把握できない」は、おそらく僕とは異なる文脈に則った世界の捉え方に対する「は?」の心情を表現していて、その見方の限界を指摘したかったのだと思う。なので前川さんの指摘する「裏返し」はありえない。

もしかしたら内田樹氏に感じるなんとも言えない違和感は、“そっち(ネットワーク的文脈)で語るべき話”を“こっち(マスメディア的心性)の問題”としてネガティブな方向性で説明しきろうとし、それがあたかも良心的な言説であるかのように社会が誤消費しようとする空気に対する拒絶反応なのかもしれない。それでは結局、「同じ穴のムジナ」なのである。

もしかしたら前川さんが言いたいのは、「ウェブ時代においてマス的役割は何が担う?」といったシンプルな問いだろうか。「社会トータルの合意形成を成立させる機能は?」ということだろうか。

もし、そうだとするならば、シンプルにあっさりと「テレビが有効!」だと思うが、そのためには組織的・ビジネス的な側面を再編し、エンターテインメントおよびジャーナリズムとしてのあり方を徹底的にいまのうちに洗い直しておかないと、「テレビ局離れ」(「テレビ離れ」ではなく)はどんどん進む気がする。テレビジョンである以上、“ビジョン”を提示できないと。

そうだ、いま生じているのは「テレビ離れ」ではなく「テレビ局離れ」なのでは? ツールあるいはテクノロジーとしての「テレビジョン」は意外と不滅で、動画を見たがらない人がどんどん増えるとは考えにくい(活字を読む量、書く量が以前に比べ圧倒的に増えているように)。なぜなら動画は楽しいからだ。

しかし、外来種テレビやネットの“オルタナティブ・テレビジョン”が、いまテレビ局が果たしているつもりのその機能をあっさり代替してしまう可能性はテクノロジーの進化具合とマーケットの開き度合いによってはけっこうあるので、早めに「守る」か「攻める」かの態度を固めたほうがよいかもしれない。もちろん「守って」ばかりいるとジワジワ影響力を失っていくだけなので、彼らを競合と考え、コンテンツとシステム(サービス)のグレードアップを図るしかない。

【管理人より】
このポストは③に続きます。



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