ネットは嘘つかない―前川英樹さんの5つのご質問に本音でこたえる④― 河尻亨一

~③からの続き~

★前川さんからの質問5.(抜粋)

「ネットワーキングの世界はいい意味でも悪い意味でも「類は友を呼ぶ」。呪いの言葉は呪いの言葉を吐く者に返ってきやすい。“つながり”とはそういうものだ」と河尻さんは言う。そう、だから「類」でない人間関係が大事であり、難しい。(中略) それでも、「類」だけで共同性が構成されるのは、易きに流れてはいないか。

★回答⑤

まず、昔もいまも、基本的に「人間」は動物である以上、“類友(ルイトモ)”な存在であることを確認しておきたい。「食べられるかもしれない」相手とはできれば付き合いたくはない。仲良くできそうな人、自分にメリットをもたらしそうな人を選んで友にする。そして「人間」は僕自身も含めて易きに流れやすい。僕は人とはそういうものだと観念し、その上で「どうすんべ?」を考えるところから常に出発する。

なので前川さんも書いているように「類ではない人間関係は難しい」。しかし、まれにミラクルが起こることもある。だから映画「戦場のメリークリスマス」のように、類友を超えた“異文化コミュニケーション”が成立する瞬間を見て、人は感動するのである。それは価値の高い(神聖ですらある)共同性だ。

だが、人類の歴史とは基本「類友」たちによる善行・悪行・悲劇・喜劇の連続だ。これはデジタル云々の話ではない。ネット以前をちらっと思い起こすだけでも、「あさま山荘」「オウム真理教」などは、煮詰まりすぎた“類友共同性”が引き起こした狂気の所行とも言える(福島原発もそうかもしれない)。これらを歴史の事例からピックアップすればきりがないだろう。

しかし、もし前川さんが、ネットワーキングによって、その「類友性」がさらにネガティブな方向に加速するとお考えであれば、それは自分の実体験に照らし合わせてちょっと違うと感じる。

僕自身に関して言うと、TwitterやFacebookを始めて、明らかに「類友度の低い」人たち(わかりやすく言うと、広告業界以外)とのやりとりが圧倒的に増えた。言葉でのみ知っていた“cross disciplie”な活動が実際に可能なのでは? とも思い始めている(じゃないと、演劇なんて出られない)。

価値観の違いを目の当たりにする機会も増え、それはけっこうエキサイティング。Facebookのイベントなどでも、「業界的な集い」から「チャリティぽい会」、自分にはまったく無縁な「抹茶を楽しもう会」などなど、多種多様なサークルからのお誘いがかかる(参加しないものが多いが)。逆にTLなどに現れる「類友的やりとり」のほうに若干引き気味な昨今である。

ただ、それは「お前だけじゃん?」という負のリアクションも想定されるので、もう少し深堀りしておこう。つまり、「類」の変質をどう考えるか? というテーマだ。

垂直型社会の「類」は、「族」(太陽族、アンノン族、暴走族etc)、「組」(「隣組」や特定○○組織的なもの)、「社」(カンパニー)といったワードに変換可能なハード群れ的単位で、“そこ”のしがらみから足を洗うことは曾根崎心中のお初&徳兵衛ばりに困難な所行だったわけだが、ネットワーク世界の「類」は、もう少し緩やかな「系」(タグ)と化している。

つまり、「類友グループ」はオタク族から「オタク系」へ、各種政治セクトは「デモ系」へ、ファッション好きな女子たちの性向は「森ガール系」「age嬢系」などへと、横断的小規模サークルへと解体されつつあり、人々はそれらを比較的自在に移動することができる。

つまり自分に破綻をきたさない限り「いくつ兼ねてもおk」なわけで、「確固たる己の価値観を築き異なる価値観との衝突、闘争、和解を通じて成長する。で、バトルが無限に続いてバブル化する」というかつての「少年ジャンプ」が礼賛しそうな行為自体が、なんとなく過去のものとなりつつある。

ようするに同質的「類」によって強固な共同性を構成しがちだったのは、“20世紀”のような気がする。水平的ネットワークはその都度のミッションに応じて、あっさりつながり、あっさり別れる。つまり「類」を横断しやすい。プロジェクト毎に柔軟に系でつながる。ネガティブも無視しようと思えばできる。

言うなればかつての文脈での「類」自体が意味をなさなくなってきているのでは? 

ネットワークはどちらかと言うと「共時性」を伴う「共同性」であり、「類」でない人間関係はむしろ作りやすい(世界中のどこのどんな人であれ、一日のどこかでご飯を食べたり寝たりする。その時間はすでに共有されている)。

しかし、その人間関係はデビッド・ボウイと坂本龍一のような濃厚なエロス・タナトスにリンクするものではなく、もっとライトなものだ。

つまりネットワークの世界では、「類」はメディアが作り上げるそれ(F1層的なもの)とも違うところがある。複数の「系」をフラットに自分の中に含みこみ、エントランスポイントを豊富に持つことがモテの条件だったりもするので、かつての“セクト的類”ではないのである。

いわば“バーチャル隣組”がたくさんあるイメージで、別に国境を超えてもよく(英語ができれば)、基本ひとつの“隣組”にしか所属してはならないこれまでと比べると、ずいぶん楽しくなっていると思うのだが。

むしろここで考えておくべきは、最近その言葉をめっきり耳にすることが減った“異文化コミュニケーション”ではなく、垂直型と水平型で社会が2分割され、そこに多大のストレスがかかって世の中がギスギスする状況だ。

やや強引にメディア世代論に持ち込むと、「テレビをよく見る40代以上と、ネットをよくやる20代以下(その双方のマインドがわからないでもなく板挟みになる30代)」という社会分断による負荷が、マスメディアとソーシャルメディアの双方に反映され、リアルな社会生活においても齟齬を来しつつあるいま、というアングルからこの問題は語られたほうがよいのでは? という気もする。

そこでまた「ネットは呪いの言葉であふれている」という例の内田樹氏話に戻る。確かにソーシャルメディア上で過激な言葉を吐きまくっている人はたくさんいる。しかし、この問題はその総量をマス的に測るだけでは見えてこない側面を持つのではないだろうか? そういった“呪い”の言説に関して、そのコメントの意味だけを斟酌すると「どうか?」と思うが、そういう人のTLをさかのぼってみると、彼らはまったく別の話題を別の「類」の人たち仲良くやっていたりもする(多くはたわいもない音楽やゲームの話だが)。

つまり、マイナビのポスターに「氏ね」と毒づく就活生も、その次のツイートではまったく違う話題に転じているのだが、呪いの部分のみメディア的に抽出すると、彼らはアンファン・テリブルに見えてしまう、という次第である。これらはネットワークをメディア側面のみからウオッチしたときに陥りやすい罠だ。

僕の体験では、そういったちゃらい「呪いの言葉」よりも、大阪のモノホンのヤンキーたちが発する「殺すぞ! おんどりゃー」のひと言のほうがよっぽど凄みがあり恐かった(ときにリアルな暴力へと発展する)。クラスの約半数がヤンキーと化するコミュニティである。そういう人たちの言動はハッキリ言って無茶苦茶なのだが、ときに異様に的を射たことも言ったりする。

まあ、幼少時より下町的環境でさんざんそういう目に遭っているので、多少そういうのを目にしても、あまりこたえないのかもしれない。内田氏がそういったクラスの担任をしてたら、やっぱり「この教室は呪いに満ちあふれている」と言いそうな気がする。

前もあやぶろに書いたのだが、僕は最初誰彼構わずフォロー返しをしており(いまはやめた)、己のTLのあまりの意味不明さに辟易し、「それぞれ一体どんな人なんだ?」と思って、100人くらいのツイートを時系列にさかのぼってみたところ、なんのことはない。時間軸で見ればふつうに面白いそれぞれの暮らしがそこにあった。

つまり、ネットワークは可視化されたとき「メディア」となるが、その際の表示システムと人々の使用方法がまだ未完成であるために、そういった問題が生じる面もあるのかもしれない。

もちろん、“筋金入りの猛者”もいまだに存在し、ときにはリアルとバーチャルの境目がわからなくなってやらかしてしまう可能性もなくはないので注意は必要だ。しかし、そういう人はいつの時代も存在するわけで、むしろ現状は縦型の社会抑圧に対して「つぶされないぞ」とする気持ちから生まれる「叫び声」が大半であり、社会が垂直型から水平型へスムースに移行しない中での「SOS」なのではないだろうか。

【管理人より】
このポストは⑤へ続きます。


★新プロフィール
河尻亨一(元「広告批評」編集長/銀河ライター主宰/東北芸工大客員教授/HAKUHODO DESIGN)

1974年生まれ、大阪市出身。早稲田大学政治経済学部卒業。雑誌「広告批評」在籍中には、広告を中心にファッションや映画、写真、漫画、ウェブ、デザイン、エコなど多様なカルチャー領域とメディア、社会事象を横断する様々な特集企画を手がけ、約700人に及ぶ世界のクリエイター、タレントにインタビューする。現在は雑誌・書籍・ウェブサイトの編集執筆から、企業の戦略立案およびコンテンツの企画・制作まで、「編集」「ジャーナリズム」「広告」の垣根を超えた活動を行う。



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